日本現代詩人会とは

改称と新会則

 一九六〇(昭和三五)年一月一五日、現代詩人会は、神田・トミーグリルで臨時総会を開いた。この総会はH氏賞事件で揺れた会を刷新・再建する、いわば出直し総会というべきものであった。議長に笹澤美明、壺井繁治を選び、五時間近い討議のすえ、全面的に一新した会則を可決、一月一六日より実施することとした。この会則は、その後の部分的な新設条項、改訂をのぞき、九〇パーセント以上現行会則として維持されている。

 新会則でとくに重要な規定は左の通りである。

 (1)会の名称を日本現代詩人会とする(第一章総則第二条)
 (2)会の役員として、理事及び監事をおく(第五章役員第一条)
 (3)理事のうちから会長一名、理事長一名を理事の協議によって決める(同第一七条)
 (4)理事の任期は七月一日から翌年の六月末日までの一カ年とする(同二三条)

 これにより従来の幹事長は会長になることになるが、新発足の会は当面会長をおかず、近藤東は理事長に就任した。

 この当初の会則のうち、会長選出を規定する第一七条、理事任期を定めた第二三条は、一九七〇(昭和四五)年七月二五日開催の総会で、次のように改定された。

 (5)会長、理事の任期は二カ年とし、理事選挙開票の通常総会までとする。理事の重任は二期までとし、重任理事は一〇名をこえてはならない(第五章役員第一八条)
 (6)会長は理事を含む会員のうちから選ぶ。理事のうちから理事長一名、常任理事二名以上を理事会で選ぶ(同第一九条)

 この改定により、理事が二期四か年以上留任することができなくなった。また会長は、理事でなくとも、会員のなかから選ぶことができるようになった。この規定の最初の適用は、一九七七(昭和五二)年、小野十三郎を会長に選任したことであった。これらの規定はいずれも、役員人事の停滞による弊害を防ぐ意図から定められたものである。

 ふたたび六〇年の出直し総会にもどるが、この総会では、新会則のほかに、「詩集選考委員会細則」「H氏賞選考基準」が上程され、可決された。細則は三条、基準は七条から成り、現在でもそのまま準用されている。ただし、一九八五(昭和六〇)年四月九日、「公益信託平澤貞二郎記念基金」に文部大臣許可が下り、同賞はこの基金で運営されるようになったので、次の第八条が追加された。

 第八条 この賞の賞金・記念品代・選考委員会等の諸費用は、公益信託平澤貞二郎記念基金より提供を受けるものとする。

 また、同じ六〇年四月三〇日、「公益信託現代詩人賞澤野起美子基金」に文部大臣許可があったので、新たに八条から成る「現代詩人賞選考基準」が追加制定された。条文は固有名詞のほか同文である。

会員・入会推薦委員会

 日本現代詩人会としての出発にあたり、理事会は、広く二十代三十代のすぐれた詩人にも呼びかけ、清新の気を吹きこむとともに、真に日本の詩人を代表する団体である性格を強化する方針に転換した。

 この方針にしたがい、一九六〇(昭和三五)年一月一五日の総会後、四月一一日までに新入会員六八名を加え、会員総数一九一名になった。逆にいうと、この新会員を差し引いた一二三名が、現代詩人会の最後の会員であったことになる。

 その後、日本現代詩人会会員は、徐々に増加した。それは会が「開けた会」になったこと、また入会希望の詩人が潜在的に少なからず存在していたことを物語る。もちろん、会としての入会チェック機能も働いてはいたが、これについては後述することにし、ここではまず会員増加の趨勢を、五年区切りの数字で示す。( )内は会員数を採ったその年の月現在。

一九六〇(昭和三五)年 二二一(一二月)
 一九六五(昭和四〇)年 三二三(一一月)
 一九七〇(昭和四五)年 三七六(一一月)
 一九七五(昭和五〇)年 四三三(一一月)
 一九八〇(昭和五五)年 五一六(一一月)
 一九八五(昭和六〇)年 五四六(一一月)
 一九九〇(平成二)年 六九三(一一月)
 一九九五(平成七)年 八五二(一二月)
 二〇〇〇(平成一二)年 九二八(二月)

 これらは、例年年末に発行される『会員名簿』によるものだが、二〇〇〇年だけは、前年の名簿から翌年一月末までの入退会者、物故会員を加減して算出した。

 入会の第一条件は「詩集(その他詩に関する著書)二冊以上を出版した者」、第二に、「会員一名、理事一名の推薦をうけた者」、第三に「理事会の承認をうけた者」である。この三条件を満たした以上は、入会を認めるのは当然といわねばならない。しかし、会員増加のピッチが早くなったので、幾度か理事会内部に入会資格見直しの声があがるようになった。

 一九八三(昭和五八)年一一月から八九(平成元)年五月まで設置された「入会推薦委員会」は、そういう入会チェック機能の一つであった。この委員会は、会則第二六条「この会の目的達成のために必要に応じて各種の委員会をおくことができる。委員は会長が委嘱する」にもとづき設置されたものである。この委員会は、理事会(設置時は会長新川和江、理事長鎗田清太郎)から回付された入会申込書、詩集等の資料によって審査し、適格者を理事会に推薦するものであった。理事会は、この推薦を拒否しないことを要件としていた。

 一九八三(昭和五八)年一一月一九日、神田・トミーグリルで、第一回入会推薦委員会が開かれた。推薦委員は、磯村英樹、一色真理、高良留美子、小柳玲子、斎藤怘、浜田知章、山田今次の七名であった。この時の入会申込者は一〇名あったが、推薦者は二名という結果であった。座長は磯村英樹で、推薦報告に、次のような所感を付していた。

入会推薦委員会の発足にあたって

磯村英樹

私は、この会はタテマエは「推薦」だが、真の目的は入会の雪崩現象を阻止することにあると受けとめている。日本現代詩人会は会員の数と質においてすでに許容限度を超え、極言すれば崩壊寸前にあると私は見る。入会雪崩は必ず退会雪崩を誘発するにちがいない。  

これは例えば核のおそろしさを訴えるようなもので、その場に至らぬと信じてもらえないとおもうが、これまでのような速度で会員をふやしていったら、早晩事務の機能に重大な支障を来たすであろう。事務の問題は会員数と会費を倍増し、専従者を置けば解決するかもしれない。しかし、そのことは質の低下を促進し、崩壊を早めることになろう。

質の低下による〝退会雪崩〞の徴候はすでにあったが、どうにか食いとめられてきた。しかし一触即発の危険を孕んでいる。「詩話会」の解散が入会問題を原因としたことは歴史の示すとおりである。

会員諸兄が会の存続を望むなら、この実情を認識して、会員推薦は最小限の新鋭だけにしぼってほしいとおもう。まわり持ちの座長を引受けた第一回の入会〝推薦〞を二割に食い止め得たことは、まずまずの出来であったと自認している。

 一九八五(昭和六〇)年九月から八七年八月までの次の理事会(会長伊藤桂一、理事長小海永二)も、入会推薦委員会を継承した。ただし、推薦委員の任期を一年に短縮し、委員会には担当理事が出席して、理事会の意見を反映させることにした。またさらに、これにつづく理事会(一九八七―八九、上林猷夫会長、斎藤怘理事長)もこれを継承したが、八九年八月からの理事会(秋谷豊会長、赤石信久理事長)の時に廃止した。それは、入会という会にとって最も重要な人事の問題は、理事会自らが完全に掌握すべきだという見解にもとづいていた。しかし、入会希望者を推薦する理事が出席する理事会で入会審議をするというところに問題があり、第三者機関に委ねた入会推薦委員会の活動は、それなりに評価すべきものがあったといえよう。磯村英樹の指摘は決して杞憂ではない。近年は、本人の希望よりも、会の方で「入ってもらいたい人」に働きかける「推薦入会」に重点を移しつつある現況である。

理事会の構成

 会員の増加は必然的に、事務量の増大を来たすことになった。それを処理する人手と場所をどうするかという問題が生ずるのは、当然であった。

 まず事務処理のための、理事の職務分担の変遷を見てみよう。

 一九六〇(昭和三五)年六月二六日、通常総会で選出された日本現代詩人会第二期の理事会は、一五名(現行も変わらず)で、次のような顔触れであった。

 (会長)村野四郎。(理事長)黒田三郎。(常任理事)木下常太郎、清岡卓行。(理事)安西均、大岡信、大滝清雄、上林猷夫、北川冬彦、木原孝一、草野心平、近藤東、桜井勝美、土橋治重、西脇順三郎。(監事)神保光太郎、蔵原伸二郎。

 「常任理事二名」は、翌年の総会で「二名以上」と改訂されて今日にいたっているが、理事一五名の職務分担は次のように定められていた。(研究)木下、大岡。(教科書)村野、大滝、桜井。(財務)草野、西脇、北川、近藤、村野。(企画)上林、土橋、黒田。(出版)木原、安西、清岡。(渉外)木下。

 「研究」は、現在「現代詩ゼミナール」の名で定着している研究会、講演会等の企画、運営。「企画」は、『年鑑詩集』等の編集、出版にかかわる業務。「渉外」は「国際交流」を含めた対外接衝担当。このうち「教科書」「財務」には、当時の社会状況と、会の活動姿勢が反映していた。

 すなわち、当時、従来からの教科書出版のあり方に、批判が集まっていた。一方的に収載し、著作者には無償という方法は、著作者無視も甚だしいという声が高まっていた。また、「財務」担当に長老詩人が五人も顔をそろえていることは、会計事務を担当するということではなく、会の財務的基盤を固めるために、出版社等に寄付を募る役割であることを意味していた(一九六〇〈昭和三五〉年一〇月一〇日の第二回理事会で、寄付者を「維持会員」とし、これを会則にもりこむことを次期総会に提案する、と決めていた)。

 「会計」は団体にとって最も重要な業務である。しかし、「財務」はあっても「会計」はない。伝えられるところでは、当時は村野会長が切り廻していたし、ある時点からは、清岡卓行常任理事が専ら会計事務を処理していた。

 現代詩人会時代の初期には、北川冬彦幹事長が、会報づくりも経費切り盛りも自ら行なっていた。一九五四(昭和二九)年から副幹事長制がとられた。副幹事長はのちの理事長に相当し、言いかえれば事務局長であったから、会計事務を管掌したことは当然である。

 日本現代詩人会になってから、秋谷豊、嶋岡晨が会計を担当して苦労したことは、『資料・現代の詩2001』の「思い出のアラカルト」の文章でうかがわれる。秋谷豊はこう言っている。「私も村野のもとで理事長を勤めたが(一九六九―七〇)、私に課せられた任務は、会計帳簿の確立(それまでは大福帳式)と財政の安定であった」。

 村野会長、秋谷理事長の次期(一九七〇―七一)は、田中冬二会長、安西均理事長の体制になった。この時、秋谷は自発的に「会計は私がやろう」と申し出て、承認をえた。この時の理事会記録に、「前理事長秋谷氏の犠牲的な申し出により、会計事務を理事長から分離した」とある。これを見ても、従来会計は理事長が主掌していたことがわかる(「会計」にかぎらず、「会報」「詩祭」「研究会」「入会」等会務の大半は、実質的に理事長が実務、指揮にあたり、その繁忙ぶりはすさまじいほどであった)。

 このようにして専任の「会計」担当理事が、職掌としてまず分離した。つづく一九七三(昭和四八)年、山本太郎会長、磯村英樹理事長のもとで、嶋岡晨が「会計」担当理事となり、「会報」にも公示された。その後は、荒川法勝、新川和江、木津川昭夫、菊田守、斎藤怘とつづき、「会計」専任理事制が確立した。

 「会計」に次いで専任理事制を必要としたのは「現代詩ゼミナール」であった。一九七四(昭和四九)年三月から一三回にわたって、東京勤労福祉会館で催された「現代詩ゼミナール」が、この名称を使った最初で、その担当は小海永二理事であった。心身ともに非常に負担の多い部門なのである。「会計」と「ゼミナール」は、今でもまず決めねばならぬ理事ポストなのであった。

 つまり、会員の増加、行事の増加による影響を大きく受ける部門から、逐次専任理事を設けていくことになったわけである(もちろん、以前から理事会の申し合わせで、おおむねの担当業務は決められていた。ここでは形式的、実質的に理事長業務から分離し、その専任を会員にも公示する形になっていく過程を示したのである)。

 次いで、安西均会長、新川和江理事長の時(一九八一―八二・昭和五六―五七年)、次の六分野についての専任理事が決められ、「会報」にも公示された。『資料・現代の詩』石原武、「広報」磯村英樹、「会計」木津川昭夫、「現代詩ゼミナール」秋谷豊、「会員名簿」大滝清雄、「日本の詩祭」桜井勝美。

 『資料・現代の詩』担当が設けられたのは、創立三〇周年記念出版として進行中の同書に関する業務を担当するためであった(同書は八一年六月刊行)。

 一九八五(昭和六〇)年―八六(昭和六一)年からの理事会(伊藤桂一会長、小海永二理事長)の時に、理事全員の専任制が初めて決められた。ただし、犬塚堯(九州在勤中)と吉原幸子(病気中)の二人のみは無任所とした。その分担は次の通りであった。「会員」磯村英樹、「渉外」上林猷夫、「会計・詩集賞」斎藤怘、「総務」鎗田清太郎、「名簿・記録」荒川法勝、「基金」安西均、「ゼミナール」内山登美子、「国際交流」大岡信、「事務所問題」菊田守、「詩祭」長谷川龍生。

 この職務分掌は現行体制の原形をなすが、九五・九六年の鎗田清太郎会長、一色真理理事長の時に、「会計」を「一般会計」担当と「年会費」担当に、「ゼミナール」を「東日本」「西日本」の二担当に分けた。

事務所問題について

 会員の増大に対応する体制づくりの苦心のうちでも、とくに「事務所問題」担当の設置は、特異なものとして注目されよう。

 もともと四三名で発足した現代詩人会は、北川冬彦幹事長宅を事務所とし、日本現代詩人会も、代々、理事長宅を事務所としてきた。しかし、理事長任期二年ごとの事務所移転には、さまざまな不利不便がともなった。たとえば移転ごとの郵便物宛先変更、金融機関の変更、会議場の不確定、何よりも理事長への事務集中の増大に歯止めがかからないこと、団体として対外的に安定感を与えないこと、等々の問題があった。そこで理事会としても、事務所設置を真剣に考えようという気運が高まったのであった。

 この問題にはとくに、伊藤会長、小海理事長が熱心であった。小海理事長は現実に、銀座の画廊の一室借用の話を進め、試験的にそこで理事会を開いたこともあった。また、いくつかの詩書出版社から事務所提供の話もあった。しかし、特定の詩書出版社内に事務所を設けることは、会の不偏性にかかわるとして断わった。さらに、大きな問題は、事務所を設ければ常勤者を置かねばならず、理事にはその生活条件がなかった。会以外から事務員を雇用するとしても、その年間の人件費、維持費に会の財政が耐えられるかどうかも大問題であった。

 これらの問題を踏まえた上で、一九八五(昭和六〇)年八月三〇日、通常総会に詳細な資料「事務所設置・事務員雇用の件」を配布し、菊田守担当理事が説明を行ない、「その準備時期を理事会に一任する」との承認をえた。結局、この問題は課題として、その後の理事会に引き継がれていくことになった。

 一九九三(平成五)年八月、新任の理事会(磯村英樹会長、木津川昭夫理事長)では、「事務所問題」を「総務」の部門に入れることとし、「会報、総務」担当理事丸地守の管掌とした。

 九五年一月九日、同理事会は、木津川理事長、一色真理常任理事(会計担当)、丸地理事の三人で、「事務所問題検討委員会」を設置した。この委員会は次の三項目を検討事項とした。①事務所の設置、②会員情報・会計情報のコンピュータ管理、③会の収支見通し、および①②実施のための対策――具体的には会費の改訂問題であった。

 委員会はこの問題についての意見を聞くために、鎗田清太郎、斎藤怘、菊田守の理事長経験者を招いての検討会も開いた。この時の素案としては、①事務所の立地・規模、②必要経費、③設備費の概算が示された。

 また、一色常任理事案の「事務の効率化について」の説明があった。その内容は、「コンピュータによるデータベースの作成とその一元管理化」「会費管理部門の独立」「会計事務全体の事務をコンピュータ化し、業者に委託する」などであった。コンサルタント会社の見積書も提出された。

 その後、業者委託は実現しなかったが、次期理事会(鎗田清太郎会長、一色真理理事長)の時に、「一般会計と会費会計の二分化」が実現した。また「年会費値上げ」(八〇〇〇円を一万円に)、「維持会費」(年会費のほかに、自由意思による一口一万円以上の醵金)の創設は、合理化の前提である「財政基盤の強化」のための施策の実施であった。

 事務所の設置は、これだけの動きがあったにもかかわらず、まだ実現していない。それは今後の財政基盤の確立如何にかかっているといえよう。事務のコンピュータ化は、現理事会において、年会費の会費処理事務及び資料記録作成など実施しつつある。

先達詩人・名誉会員

 一九五五(昭和三〇)年度から、現代詩人会は、「会則第三条一〇」の「現代詩の発展に貢献した詩人の顕彰」を実行することになった。第一回顕彰者には河井酔茗が選ばれた。顕彰は同年六月四日、神田・YWCA会館で、第五回H氏賞授賞式を併せた「五月の詩祭」で行なわれた。笹澤美明、青野季吉(日本文藝家協会会長)、村野四郎が顕彰の言葉を述べ、記念品を贈呈し、酔茗が挨拶した。酔茗作品の朗読もあった。なお、この第一回顕彰にあたり、幹事の木原孝一が角川書店編集部にいた鎗田清太郎を訪ね、『河井酔茗詩集』(角川文庫)の記念出版を依頼、その後実現した。

 「先達詩人」として顕彰された詩人は、一九九九(平成一一)年度までに八九人を数えた。ことに印象深かったのは、七五(昭和五〇)年五月八日、渋谷・西武劇場で行なわれた「日本の詩祭’75」における顕彰であった。この年は会創立二五周年にあたり、次の九人が顕彰された。岡崎清一郎、岡本潤、北川冬彦、笹澤美明、佐藤一英、高橋新吉、壺井繁治、前田鉄之助、(故)村野四郎。

 この日の出席者は高橋新吉、壺井繁治の二名だけだったが、特筆すべきは、会の創立者である北川冬彦、村野四郎の顕彰であった。北川冬彦は会創立の最初の呼びかけ人であり、初代幹事長であった。しかし、H氏賞事件により会との間に非難し合うような関係がつづき、六一(昭和三六)年早々に退会していた。会が北川を顕彰し、北川がこれを受けたことは、歴史的和解ともとれた。北川と並ぶ功労者村野四郎は、この顕彰の二か月余前に死去し、会葬をもって敬弔されていた。破格の故人顕彰に何人の異議もなかったであろう。

 一九七一(昭和四六)年七月二四日の総会で、「会則第二章第九条」に、「名誉会員」制を織り込むことが可決された。その条文は次の通りである。

 第九条 この会に第四条の会員のほかに名誉会員と維持会員(現行では「賛助会員」)をおくことができる。名誉会員は日本の詩の発展に貢献した先達のなかから理事会が推薦し、総会で決定する。(中略)。
 名誉会員と維持会員(現行では「賛助会員」)は第四条の会員の持つ権利を持たない。

 この会則改訂にもとづき理事会は、金子光晴、西脇順三郎、堀口大学の三氏を名誉会員に推薦し、総会で満場一致可決した。名誉会員にはその後、二九人の詩人が推薦されたが、現在(二〇〇九・平成二一年十二月)では、次の五名である。

 伊藤桂一、杉山平一、那珂太郎、長島三芳、寺田弘。

 名誉会員は、その名称自体に敬意が象徴されていて、一般会員を超越した存在であると考えられていた。それ故に「第四条の会員の持つ権利を持たない」と規定されていたのであった。しかし、これではいっさいの権利義務関係がなくなって、会とのコンタクトもまったくなくなる、という声が、当の名誉会員の一部からあがった。これを九五年度の理事会(鎗田清太郎会長、一色真理理事長)で検討し、九六(平成八)年八月一日の総会で、次のような改訂案を提出、可決された。

 第九条 (前略)名誉会員は詩集賞の投票権をのぞき、一般会員がもつ権利を持たない。

 さらに、次期の理事会(長谷川龍生会長、菊田守理事長)は、九九(平成一一)年八月一八日の総会に、「会則第二章会員第九条」の全面的改正案を提出、可決された。

 第九条 (前略)名誉会員は日本の詩の発展に貢献し、かつ本会の活動に寄与した会員のなかから理事会が推薦し、総会で決定する。
名誉会員は理事の被選挙権をのぞき、一般会員が持つすべての権利を持つ。

 これを旧会則と比べると、「日本の詩の発展に寄与し」までは同文だが、「先達のなかから」が削られ、「かつ本会の活動に寄与した会員のなかから」と改められた。これは「先達のなかから」という文言が、名誉会員は先達詩人として顕彰された詩人のなかから選ばれる、と誤解されるのを避けるためであった。また、「本会の活動に寄与した会員のなかから」と規定したのは、先達詩人は会員非会員であるを問わないが、名誉会員はすぐれた詩人であるとともに、「会に貢献した会員」であることを要するということの明示であった。

教科書・著作権問題

 一九六〇(昭和三五)年の発足時から、日本現代詩人会は、教科書問題に熱心に取り組んだ。

 会はこの問題の研究・対応のため、教科書委員会を設けた。村野四郎会長を委員長とし、大滝清雄、江頭彦造、小海永二、桜井勝美、嶋岡晨、那珂太郎、西垣脩、福田陸太郎、藤富保男、古川清彦、分銅惇作に、常任理事木下常太郎、同清岡卓行が加わった。

 同年八月二二日に第一回委員会を開き、九月三日、第二回委員会には文部省教科書調査官の沢木欣一、新間進一両氏を招き、三時間にわたり懇談した。この時、桜井委員から、教科書における詩の採り上げ方の偏り、教授方法について、詳細な資料をあげての批判があった。第三回委員会は九月二六日に行なわれた。教科書編集者側から東京書籍、大原出版、三省堂、角川書店、好学社、筑摩書房の担当者が出席し、『高校国語』について意見を交換した。この頃は文芸出版社が教科書出版に乗り出してきたのが目立っていた。一一月一日の第四回委員会では、岩淵悦太郎国立国語研究所長をかこんで懇談した。一一月二八日の第五回委員会では、今後の方針と運営を協議した。そして、折柄、著作権団体協議会結成の動きがあるので、この動向を見守りつつ、月例委員会は一応休会することにした。

 この頃、教科書問題と並んで、各界の関心を集めていたのが、「著作権保護期間」の問題であった。すなわち、日本の著作物は、一八八九(明治二二)年制定の「著作権法」によって、「著作者の死後三十年間」と規定されていた。しかし、世界各国の大勢は、「死後五十年間」になっていた。日本の独立国としての国際交流が広まるにつれ、このままでは翻訳権などについて、一方的に不利になる恐れもあった。

 この気運をうけて、一九六〇(昭和三五)年一一月一六日、日本文藝家協会主催の「著作権延長問題打合会」が同会会議室で開催された。著作権にかかわる主要団体のすべてとともに、本会も代表(担当、常任理事木下常太郎)を送った。打合会では出席団体一致で、著作権団体協議会をつくることを決議した。そして、著作権保護期間延長だけでなく、現行の不合理な著作権法を時代に即応したものに全面改正すること、そのために協力研究し、文部当局や国会に働きかけることを申し合わせた。本会では一二月一日の理事会で、著作権団体協議会加入を正式に決定し、木下常太郎常任理事を代表権を委ねた正式代表とすることを決めた。

 同年一二月一四日、第一回著作権団体協議会の結成集会が開かれた。次いで翌六一(昭和三六)年七月一七日、総会開催、ここに正式に発足した。本会は幹事団体に選ばれ、詩歌部門を代表することになった。

 しかし、このような運動にもかかわらず、著作権法の改正にはなお時日を重ねねばならなかった。一九六四(昭和三九)年一月一三日、安藤一郎会長名による「著作権の制限に関する意見書」は、文部省著作権制度審議会の「中間報告」に対する批判と抗議であった。

著作権の制限に関する意見書

日本現代詩人会
会長 安藤一郎

昭和三十八年十一月四日発表の審議結果概要(中間報告)中の第二小委員会の結論である教科書に於ける「著作権の制限」に関する内容には強く反対する。第二小委員会はこの件に関しては公正な立場に立って改めて審議することを強く希望する。 反対の理由 ㈠教科書は著作者の労働によって生産された作品と出版業者の経済活動の合作によって製作され、生徒若くは国家に売り渡される商品である。しかるにこの商品の共同製作者である出版業者には相応の利益を保証し、他方の共同製作者である著作者の権利と利益は一切認めないという考え方はまったく不合理であって納得できない。著作者の作品を公共のために無償で提供せよというならば、出版業者もその商品である教科書を無償で公共のために提供すべきではないか。出版業者にとってこれが納得できないと同様に著作者にとってもこれは納得できないのは当然ではないか。 ㈡テープ、放送等の場合に於ても当該業者には利益を保証して、著作者には一切の権利と利益を認めない自由利用を許すというのは㈠の教科書の場合と等しくまったく不合理であって納得できない。 ㈢詩の作品のような短詩型文学などに於ては小説や評論の場合と異り、一つの作品の一部分でなくその全部を完全に掲載するので、著作物が全面的に自由利用されることになり、著作権の制限による犠牲は重大である。 ㈣詩の作品のような短詩型文学に於ては、その形式や表現に於ける用語、文体スタイル等は重要にして微妙な意味を持つから、これを軽々しく変更することは著作者の立場に於ては許すことができない。しかるに今回の中間報告に於ては、著作物の自由利用については使用者に制裁を伴わない事後通報義務という程度の簡単な義務を課するのみで、著作権ばかりでなくその人格権をさえ無視しているので、作品の用語やスタイルが勝手に変更されても、著作者は後の祭で何の抗議も出来ないで泣き寝入りするほかないであろう。今回の中間報告に示されたような著作権の制限を法律にして著作者の人格と権利を無視し圧迫を加えることは、憲法に保証された人間の権利と人間の人格を無視するもので黙過することはできない。

昭和三十九年一月五日

文部省著作権制度審議会委員殿

 その後、会は、日本文藝家協会、日本演劇協会、日本放送作家協会、日本著作権団体協議会等と共同して、文部省著作権制度審議会、国会文教委員との交渉をつづけた。「新著作権法」が施行されたのは、先の声明書から七年を経た、一九七一(昭和四六)年一月一日であった。

 この新「著作権法」では、「著作権保護期間」が、従来の著作者「死後三十年間」から、「死後五十年間」に延長された。また、著作権関係の所管は、六八(昭和四三)年、文部大臣管轄下に新設された文化庁に属することになった。

 会が熱心に運動してきた教科書については、次のように規定された。

 著作権法第三三条
 ①(教科書用図書の定義)略。
 ②前項の規定により著作物を教科用図書に掲載する者は、その旨を著作者に通知するとともに、同項の規定の趣旨、著作物の種類及び用途、通常の使用料の額その他の事項を考慮して文化庁長官が毎年定める額の補償金を著作者に支払わなければならない。
 ③文化庁長官は、前項の定めをしたときには、これを官報で告知する。
 ④(前三項の規定を、高等学校の通信教育用学習用図書及び第一項の教科書の教師用指導書の著作物にも準用すること)略。

対外声明

 安保条約反対 一九五一(昭和二六)年九月、講和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれた。この条約は米駐留軍が、日本防衛の義務を全面的に負うものではなかった。そこで、日本政府はその改訂に意欲を燃やしていたが、アメリカはなかなか動かなかった。ところが一九五七(昭和三二)年、ソ連のスプートニク二号の打ち上げがあり、アメリカの極東戦略は変更を迫られた。すなわち日本の前線基地化、安保条約改定が急務となった。そして、六〇年一月六日、日米交渉最終妥結。同一九日、新「日米安保条約」、新「日米行政協定」が、ホワイトハウスで調印された。

 これに対して、労働団体、全学連、市民団体等の反対運動が高揚し、国会での批准阻止闘争となって激化した。五月一九日、衆議院特別委員会で「単独採決」強行。六月四日、安保改定阻止第一次実力行使(ゼネスト)実施、総評では五八〇万人参加と発表した。六月一五日には、全学連主流派のデモ隊七〇〇〇人が国会内外で警官隊と衝突し、東大生樺美智子が死亡した。

 会では、六月二八日、蔵前工業会館での通常総会で、「五・一九以来の事態について」全会員に発送したアンケートにもとづき、活発な討論を行った。その結果、この総会で選挙した新理事会で声明案を起草し、全会員に賛否を問うこと。その後に臨時総会を開き、態度と行動を決めることとした。強行採決無効、国会即時解散、新安保不承認、六・一五事件評価、の四項目を入れよという提案もあった。

 しかし、時すでに遅く、六月二三日には日米間で批准書が交換され、新安保条約は自然発効するにいたっていた。この時期に、さらに臨時総会を開き、声明書を審議、発表することは、あまりにタイミングを失していた。また、かえって会の威信を問われかねないことになるので、声明発表は見合わされた。その経過については、「会報」に発表した。

金芝河処刑問題 一九七四(昭和四九)年七月二七日、神楽坂・日本出版クラブ会館で、通常総会が開かれた。この総会では、先に理事会(山本太郎会長、磯村英樹理事長)が緊急アンケートを全会員に発送し、それにもとづき七月一九日付で朴正熙韓国大統領に送った「金芝河釈放要望書」を、事後承認した。それは次のようなものであった。

要望書

貴国の裁判は、詩人金芝河氏に対し、無期懲役の重刑の判決を下しましたが、日本現代詩人会は(会員四〇九名の絶対多数の意見に基き)これを遺憾とし、判決の撤回を要望します。

人間の自由と尊厳を守るために、民衆の声をうたい上げてきた金芝河氏の詩作活動は、洋の東西を問わず、詩人として当然の行為であり、これを圧殺することは、単に金芝河氏個人の問題にとどまらず、人間の基本的権利である言論・思想の自由を無視した重大な問題であります。

もとより日本現代詩人会は政治的集団でも党派的過熱により盲目化した結社でもありません。従って、この要望書は特別のイデオロギーに基く観念的な判断ではなく、わが国が過去にもった暗黒裁判の苦い反省を含む自由への真情に発するものです。

わたしたちは、地球上の誰もが再びあの体験をくりかえすことがないよう、政治以前の人間存在の問題として、ここに金芝河氏の釈放を強く訴え、韓国当局の勇気ある再考を望んでやみません。

一九七四年七月十九日

会長 山本太郎 
理事長 磯村英樹 
常任理事 石原吉郎 
同 大岡 信 
同 小海永二 
同 嶋岡 晨 

大韓民国大統領

朴正熙殿

 この声明書を出すにあたって、理事会は次の往復葉書を全会員に発送し、その賛否を問うていた。

緊急提案

韓国非常普通軍法会議は、七月九日、詩人金芝河氏に死刑を求刑しました。
語れ、語れ、ひき裂かれた体で
傷口のことごとく、開かれた唇として、舌として……
と、きびしい弾圧に耐え、凍結された韓国民衆の血の叫びを代弁してきた金芝河氏に対するかかる求刑は、単に韓国の民衆のみならず、世界の民主主義に脅威を与える許しがたい行為であると考えます。
よって、ここに日本現代詩人会として、朴大統領に対し、厳重な抗議文を送ることを緊急提案し、会員各位の御賛同を求めます。
急を要しますので、本状到着次第、直ちに賛否返信下さるようお願いします。

日本現代詩人会
会長 山本太郎

 結果は、四〇九名の会員から三〇九名の回答があり、賛成三〇〇名、反対六名、中立三名であった。反対理由は、

①日本流儀は韓国に通用しない。抗議行動に責任をとりがたい。(Ⅰ会員)
②抗議文を送るすべての運動に疑問をもつので参加しない。(S会員)
③政治団体でない本会が狂ったエゴの塊の如き朴に抗議したところでどうにもなるまい。
冷血人間へ人道的なアピールが通じると考えることじたい甘い。(N会員)

 また、中立意見として、次のようなものがあった。

①嘆願書を送るべきだ。(R会員)
②無期になったので。(K・A会員)
③考えるところあり。(K・T会員)

 また、日本ペンクラブを代表して訪韓した白井浩司、藤島泰輔の二氏が帰国後、「金芝河事件は言論弾圧ではない」という見解を発表したことに対しても、会は前掲の朴大統領宛要望書の写書を添え、次のような要望書を日本ペンクラブに送った。

要望書

冠省 当会は別添のような金芝河氏の処刑撤回を要望する文書を韓国政府に送り、同時に報道関係にも伝えて世論に訴えています。同様な抗議行動が多くの団体および個人によって行なわれていることは、新聞等の報ずる通りです。

かかるとき、ソウルを訪問した貴会代表藤島泰輔、白井浩司両氏の「金芝河事件は言論弾圧ではない」という見解発表は、日本の詩人を含めた文学者に対する大きな誤解を招く背信行為であり遺感にたえません。

すでに貴会員の中からもこれに抗議する声があがっていますが、速やかに貴会の総意に基く、正当な見解を発表されることを望んでやみません。

一九七四年七月三十一日

日本現代詩人会

国家機密法案(スパイ防止法案)反対声明

 前述数例に見られるように、会の「声明」と発表には、前段階としてのハードルがあった。つまり、政治性をもつ問題については、理事会専断で発することはためらわれる事情があった。「会員の総意にもとづき」が前提とされなければならないからである。

 一九八七(昭和六二)年四月一七日、会(伊藤桂一会長、小海永二理事長)は、「防衛機密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」への反対声明書を発表した。この時も二月一五日付で、予め会員の意向調査を実施した。その結果は、回答者は会員総数五七七名中四五〇名(七八・〇%)。「会として反対もしくは危惧の念の意を表明すること」についての回答内容は、

 賛成  三八九(八六・四%)
 保留   三〇(六・七%)
 反対   二〇(四・四%)
 無記人  一一(二・四%)

であった。

 「反対もしくは危惧の念の意思表明をする場合、声明文の文章を理事会におまかせ頂けるかどうか」についての回答内容は、次の通りであった。

 一任する 三九四(八七・六%)
 一任できない 一一(二・四%)

 この結果にもとづき、三月一九日、理事会は論議をかさねた末、「法案の内容に強い危惧の念を表明する」ことに決した。次いで、四月一七日の理事会で、左記の声明文を承認した。声明文はただちに、国会、内閣、政党、新聞社、放送局、関係団体に送付された。

「防衛秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」への声明書

日本現代詩人会では、政府・自民党によりさきに国会に提出された「防衛秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」、並びに提出を予定されている修正案について会員の意見を徴したところ、大多数の会員がこの法案は思想・信条・学問・研究の自由、集会・結社・言論・表現の自由を著しく制限・抑圧するものであり、且つその運用においても危惧の念を抱かせるものであると判断しています。よって日本現代詩人会として右法案の国会提出に反対し、廃案を強く希望します。

昭和六十二年四月十七日

日本現代詩人会 
会長 伊藤桂一 

 この法案は、野党および言論界、文化界はじめ各界の反対が強く、六月一二日廃案となった。

その後の出版

 会編集の出版物は、H氏賞事件の影響もあって、『年刊現代詩集』第三集(一九五七年版)刊行以後とだえていた。その続刊を望む会員の声は強く、一九七〇(昭和四五)年六月、一三年ぶりに実現することになった。

 それは、前年四月から六月、および一一月の二回にわたって催された本会主催「現代詩作詩講座」(会場、東京商工会館)の記録を主体に編集されたもので、日本現代詩人会編『現代詩作詩講座』全三巻(定価Ⅰ二四〇円、Ⅱ二〇〇円、Ⅲ二四〇円)として、社会思想社から刊行された。内容は次の通りであった。

Ⅰ『詩をどう書くか』井上靖「詩と私」ほか一二篇。
Ⅱ『詩をどう読むか』鈴木亨「新体詩の誕生」ほか一〇篇。
Ⅲ『海外の詩人たち』関口篤「D・H・ロレンス」ほか一一篇。
この初版印税の半額は執筆者に分配、半額は本会収入に当てられた。

創立三〇周年記念出版『資料・現代の詩』

 一九八〇(昭和五五)年は、現代詩人会創立満三〇年にあたるので、数年前からその記念行事についての検討が始められていた。それに着手したのは、七七(昭和五二)年から理事会(小野十三郎会長、上林猷夫理事長)であった。理事会ではこの記念行事の根幹的企画として、「会史」「会員アンソロジー」「現代詩の資料」を合体させた出版物の刊行を考えた。これは人手と時間と費用を要する大仕事であった。

 そこで、理事会では、まずこのような出版が可能かどうかを検討するために、「アンソロジー刊行検討委員会」を設置した。委員会は土橋治重理事を委員長とし、大森忠行、郷原宏、知念栄喜、中島可一郎、村田正夫、鎗田清太郎によって構成された。いずれも出版事情に明るく、編集実務の経験者であった。

 委員会は熱心な討議をかさね、①会からの一定資金の支出が可能であること、②資料性をもたせた書籍であること、③著名出版社からの出版が望ましいこと、などを条件として、出版可能の答申を行なった。

 これを受けて理事会は、出版を具体的に進めるために、小海永二常任理事を委員に加え、編集プランの作成を委任した。「検討委員会」も「三〇周年記念出版準備委員会」と改称し、新たに安西均常任理事、伊藤桂一常任理事、秋谷豊理事、磯村英樹、原子朗が委員に加わった。

 一九七九(昭和五四)年七月二八日、総会において、任期満了による理事の交替があった。新理事会は、会長大岡信、理事長磯村英樹、常任理事・三〇周年刊行物担当理事小海永二であった。「準備委員会」は「編集委員会」となり、以後次の三人がいっさいの編集実務を担当した。小海永二(編集委員長)、磯村英樹(編集委員)、郷原宏(編集委員)。

 発行出版社は伊藤桂一常任理事の尽力で講談社に決定した。また資金面については、とくに大岡信会長、上林猷夫前理事長が平澤貞二郎氏に懇請して、一〇〇万円の寄付を得ることができた。因みに出版費用は約二六〇万円であった。

 こうして、一九八一(昭和五六)年六月、『資料・現代の詩』が完成、刊行された。その内容概略と担当(執筆、編集)者は次の通りである。

 『資料・現代の詩』A5判・布表紙上製・貼箱入り・口絵写真八頁・本文五二八頁。講談社刊、定価六八〇〇円。
(内容)
 一、『資料・現代の詩』刊行にあたって
   会長 大岡信 三頁。
 二、日本現代詩人会三十年史 上林猷夫
   一八〇枚、七〇頁。
 三、各地方の活動状況 磯村英樹編
   一四〇枚、五五頁。
 四、記録・資料 石原武編
   ①詩集賞 ②日本現代詩人会が敬意をおくった先達詩人 ③戦後の主な詩人全集 ④戦後の主な詩全集、アンソロジー ⑤詩人団体一覧 ⑥物故会員名 ⑦日本現代詩人会会則 三八頁。
 五、戦後詩年表 小海永二、深澤忠孝 一五〇頁。
 六、現代詩人名簿 郷原宏編
   会員五二一名、会員外五五名(含故人)の略歴と自選作品一篇。一九八頁。
 七、あとがき 小海永二 五頁。

 なお、一九八一(昭和五六)年六月三〇日、『資料・現代の詩』刊行記念「現代の詩講演の夕ベ」が東京新宿・安田生命ホールで開かれ、安西均、伊藤信吉、郷原宏、小海永二、新川和江の講演、谷川俊太郎の自作詩朗読があった。

創立四〇周年記念出版『現代の詩・1991』

 一九九〇(平成二)年に創立四〇周年を迎えるにあたり、会は上林猷夫会長、斎藤怘理事長の任期中(一九八七〜八)から記念事業を考え、資金の積立ても行なっていた。八九(平成元)年からの理事会(秋谷豊会長、赤石信久理事長)はこれを引き継ぎ、実行する任を担った。記念出版については、『資料・現代の詩』の経験と実績をもつ小海永二が、記念出版担当理事として、これを進めることになった。

 今回はすでに三〇年を総括する出版物が出ているので、それとの継続性と、会員アンソロジー重視の方針がとられた。継続性という意味で、「年表」は八〇(昭和五五)年から八九(平成元)年までの一〇年間とし、小海永二と深澤忠孝が作成にあたることになった。「会員アンソロジー」は、前回が7ポイント三段組みであったのを、今回は8ポイント二段組みとし、版面も大きくとることとした。発行所は大和書房に決まった。

 一九九〇(平成二)年四月一日、寄稿依頼状を発送し、名誉会員を含めて会員総数六八九名(同年三月末現在)中六一二名の作品参加をえた。発行は九一年四月(奥付日付は一五日)で、今回も会員には無償贈呈とした。その内容概略は次の通りである。

『現代の詩・1991』
A5判・クロース装上製・貼箱入り・四〇八頁。
大和書房刊、定価五〇〇〇円。
一、詩の世代・詩の生存 会長 秋谷豊 三頁。
二、アンソロジー
名誉 会員六名、会員六〇六名。略歴と自選作品一篇。三一四頁。
三、年表(1980〜1989)
小海永二、深澤忠孝。六六頁。
四、あとがき 小海永二 二頁。

創立五〇周年記念出版『資料・現代の詩・2001』

 二〇〇〇年に創立五〇周年を迎えるにあたり、会(長谷川龍生会長、葵生川玲理事長)は先ず、五〇周年担当理事を設け、第一歩として一九九八年一〇月五日現理事及び歴代の会長経験者を加えての拡大会議を開催、「創立五〇周年記念実行委員会」を立ち上げ、その事業の一角として『資料・現代の詩』編集委員会を設置した。委員長 鎗田清太郎。委員 葵生川玲、麻生直子、伊藤桂一、斉藤怘、深澤忠孝、丸地守*、三鬼宏*、八木忠栄。
(*は常任)

 編集方針は、創立四〇周年記念出版『現代の詩1991』を原則的に継続させた形をとるが、特に二一世紀に向っての日本の現代詩の総括と未来への展望を目的とした『シンポジウム現代の詩五五年の証言――日本の詩人が見えてくる』を加えることとした。このシンポジウムは「日本の詩祭2000」に於いて行ったものであるが、企画としては、この『資料・現代の詩2001』の特集として予め用意したものであった。

 「アンソロジー」は、会員の殆どの(四名欠)九一九名の収載となった。

 「記録・資料」及び「戦後詩年表」は小海永二、深澤忠孝、葵生川玲の諸氏の収集資料及び執筆による。

 「あとがき」(四ページ)は鎗田清太郎。発行元は、角川書店にお願いした。

アンソロジー『地球環境を守ろう』

 二〇世紀後半から世紀末へかけて、「地球環境問題」の重要性が、ようやく全世界的問題として、つよい関心を呼び始めた。それは具体的には、①土地の消失、②砂漠化の進行、③熱帯雨林の消滅、④廃棄物による汚染、⑤農薬汚染、⑥大気汚染と酸性雨、⑦オゾン層破壊、⑧地球温暖化、等に要約される。これらが一挙に人類滅亡の現実問題として、一挙にクローズアップされたのが、一九九一(平成三)年一月一七日に勃発した多国籍軍のイラク攻撃、いわゆる湾岸戦争の勃発であった。イラク軍がクウェートを撤退するにあたり大油田を爆破したら、地球の生態系が一挙に破壊されるという予測まで報ぜられるようになった。幸いその事態にまではいたらなかったが、これを機に地球環境問題を緊急切実なものとする世論が一挙に高まった。

 詩人の間でも、詩人の立場から行動を起こすべきだという声が上がり、それが日本詩人クラブとの連帯行動というかたちをとって具体化した。すなわち、共同声明と共同出版であった。共同声明はつぎの通り。

『地球環境を守ろう』

声明とお願い

われわれ人類の生活圏である地球環境は、いま、大きな危機に瀕しています。

大気や海洋の汚染、フロンガスによるオゾン層の破壊、熱帯雨林の減少や自然の生態系の変化・変質など、今日の事態は大変深刻なものと受け取られていますが、そうした世界的規模での諸現象のみならず、身近な日常生活の場においても、各種廃棄物・家庭ゴミ・生活排水の処理問題などの緊急を要する課題が山積しています。

今日のいわば人類的な課題ともなっている環境問題を指摘し、警鐘を鳴らす論調や運動は国の内外に数多く、それらの声は高まりつつありますが、なお問題の根は深く、解決は容易ではありません。

取り返しのつかぬ破局的な事態を招かぬために、われわれは、目先の経済的利益や過度の利便を求める発想や行動形式を退け、大きな視野で現代文明の在り方や人類の生き方そのものを考え直すべき時なのかもしれません。

国連主催の『地球サミット』が来年六月ブラジルで開催され、広く問題点を検討するとのことですが、真に問われているのは、地球市民としてのわれわれひとりひとりが、いま、草の根レベルで、何をなすべきか、何をなしうるかということではないでしょうか。

全日本の詩人たちが拠る日本現代詩人会(会員数七二二名)及び日本詩人クラブ(同六一一名)の両団体は、内なる要請に従って、相寄り相談し、詩人の視点でこの問題を取り上げ、次のような行動計画を立てて一連のキャンペーンを行なうために、共同歩調を取ることを決めました。
1  『地球環境を守ろう』という統一テーマで会員たちに作品活動を呼びかける。
2  右の統一テーマによる作品集あるいはパンフレット詩集を発行する。
3  他の環境保護団体とタイアップして、統一テーマによる講演と詩の朗読の会を開催する。
4  新聞・雑誌・テレビ・ラジオ等のマスコミ諸機関に作品発表の機会を提供してもらい、広く一般向けに環境問題への喚起を呼びかける。
ついては右の4に関して、当両団体の今回の活動の趣旨をご理解いただき、貴社のご協力をいただけると幸いです。

一九九一年(平成三年)十一月

日本現代詩人会 会長 小海永二

日本詩人クラブ 会長 寺田 弘

問合せ・連絡先

日本現代詩人会 理事長 菊田 守

日本詩人クラブ 理事長 筧 槇二

 同時にこの二団体は、会員に作品応募を呼びかける「要項」を発表した。第一集は日本詩人クラブ(編集責任者・鈴木敏幸)が担当し、第二集は日本現代詩人会(編集責任者・鎗田清太郎)が担当することとした。

 なお、パンフレット詩集『第一集』の発行日の三月一四日、「地球環境を守ろう」キャンペーンの一環としての講演会が、二団体共催で、信濃町・東医健保会館で開かれた。講演は日本野鳥の会会員で芥川賞受作家の加藤幸子による「東京湾の鳥たち」。また二団体各三名の会員が、パンフレット詩集への応募作品を朗読した。

公益信託の創設

 平澤貞二郎記念基金 従来、H氏賞は毎年その都度、平澤氏から賞金、記念品を寄贈され、それを本会から受賞者に贈呈していた。平澤氏も自ら記念品を選び、それを例年の楽しみにしていた節もあった。

 ところが、一九八四(昭和五九)年、H氏賞基金を法人化する動きが活発になった。それは、平澤個人がいなくなってもH氏賞は存続しつづけるようにとの、氏の素志にもとづくものであった。氏が八〇歳を迎えたこの年から、平澤氏側の動きは具体的になった。会(新川和江会長、鎗田清太郎理事長)は、この厚意を受けて、平澤氏側と緊密な連繫を保ちつつ、その実現のために努力するようになった。

 最初は当会を財政的に支える財団法人を設立する案で進められていた。すなわち、平澤氏提供の一億円を基金とする「財団法人日本現代詩人会文化財団」を設立するという素案であった。これが可能かどうか、平澤氏側と協力して、会長、理事長を中心に調査・検討をかさねた。また、所轄官庁への運動、意向打診も実行された。

 同年六月八日、草野心平名誉会員が文化庁長官と会談、日本の詩芸術振興のための団体設立について理解を求めた。六月一四日、七月一七日には、新川会長、鎗田理事長、伊藤桂一理事、郷原宏理事、安西均前会長が文化庁普及課を訪ね、担当官と懇談、財団設立の趣旨を訴え、法的条件、当局側の見解などを質した。平澤氏側でも協栄産業常務(のちに専務)の石原保雄、島田種次弁護士を中心に詳細な「寄付行為」(財団規約)等の文書作成、法的要件への対応が進められ、会側との打合せもしばしば行なわれた。

 しかし、このような活動にもかかわらず、文化庁の対応はきわめて慎重で、財団設立の許可はなかなかおりなかった。それには当時行政改革が叫ばれていて、とくに公益法人の濫造にきびしい批判の目が注がれていたという事情もあった。

 会では、新川会長、鎗田理事長、伊藤理事、郷原理事、安西前会長の五名をもって、この問題に関する「特別委員会」を設置した。七月一七日、文化庁訪問後に開かれた委員会では、平澤氏側の発起による別法人の設置を全面的に支援するが、日本現代詩人会と表裏一体を成す組織の実現が可能であるかどうか、そのための具体的方法については、なお柔軟な態度で研究・対応することにした。いずれにせよ、法人創設の有無にかかわらず明年からH氏賞の賞金を三〇万円にしたいという平澤氏の申し出があったので、この件は理事会として有難く受けることを承認した。

 なお、同年七月二八日、神楽坂・日本出版クラブ会館で開かれた通常総会に、議案三号として「H氏賞・現代詩人賞基金確保のため法人設置準備の件」が提出された。この件は理事会側の説明により、「原案作成を特別委員会および理事会に一任し、決定は臨時総会を招集して行なう」と、全員賛成で承認された。

 詩人賞基金(時を同じくして、「現代詩人賞」にも法人化問題が起こっていた)の法人化が、「財団法人」設立から「公益信託」設立の方向へ急速に傾いたのは、財団の「事業計画」作成の段階からであった。つまり、作文としての「事業計画」は可能だが、基金を維持しながら、「赤字を生まない」事業の活発な継続化(当局はそれを要件としていた)は現実性に乏しかった。また、財団法人になれば、毎年の決算報告、事業報告が課せられるが、会の事務組織(形式上は別法人の業務だが、活動の実体は日本現代詩人会になる)がそれに対応できるかという危惧である。

 こうして、手続きが簡便で、基金の利子(無税)を日本現代詩人会に支出することだけの目的と機能をもつ「公益信託」設置に、会も平澤氏側も踏み切るようになっていった。

 一九八五(昭和六〇)年四月六日、「公益信託平澤貞二郎記念基金」に文部大臣の許可がおりた。基金は二五〇〇万円であった。かさねていうと、この基金は本会とは別法人格であるが、H氏賞についてのみ適用されるものであるから、H氏賞が本会の賞であるかぎり、基金からの提供を受けつづけられるわけである。

 「平澤貞二郎記念基金」発足時の役員は、次の通りであった。

 (信託管理人)草野心平。(運営委員)新川和江、鎗田清太郎、安西均、伊藤桂一、犬塚堯、石原保雄、畠中哲夫。

 その後、(信託管理人)は、草野心平没後伊藤信吉に代り、さらに伊藤氏が高齢の事由で退任した後を鎗田清太郎が継いでいる。(運営委員)は、安西均、犬塚堯の没後、菊田守、磯村英樹が就任。また石原保雄退任の後を平澤省而(貞二郎長男)が継ぎ、さらに二〇〇〇(平成一二)年七月、平澤省而が退き、平澤照雄(貞二郎次男、協栄産業社長)が就任し、現在にいたっている。

 なお、公益信託許可に先立つ八五(昭和六〇)年一月二二日、帝国ホテル桜の間で、「平澤貞二郎の会」が、平澤家主催で開かれた。これは前年秋の叙勲で、平澤氏に銀杯が授与されたことを記念しての会であった。授与理由が、H氏賞設定による文化的寄与ということであったから、現在実業家の氏には、かえって一入喜びが深かったようであった。この会には、本会役員、H氏賞受賞者、友人、事業関係者、家族、親戚等八〇名が出席し、平澤氏を祝った。出席者全員にチェコ製の切子硝子花瓶が贈られた。

現代詩人賞澤野起美子基金 一九八一(昭和五六)年一一月、東京都武蔵野市在住の澤野起美子会員から新川和江理事長に、日本現代詩人会に一〇〇〇万円寄付したいという申し出があった。澤野起美子は七〇歳から詩を書き始め、七三(昭和四八)年には詩集『冬の桜』で土井晩翠賞を受賞していた。篤志家でもあり、故郷岩手に奨学資金を設立し、また、同郷の詩人村上昭夫(第一八回H氏賞受賞者)の詩集出版や詩碑建立も行なっていた。

 この申し出を新川理事長は安西均会長に伝え、急を要するので常任理事(石原武、磯村英樹、木津川昭夫、宗左近)の意見を聞いた。結果、その使途の決定は今後の課題とし、とにかく寄付金は受けることにした。時期が年末であり、澤野氏にも税申告の関係があろうと判断されたからであった。

 そこで一二月四日、澤野氏の取引銀行である三菱信託銀行自由ヶ丘支店で、寄付金の授受が行なわれた。この後、一〇〇〇万円をフルに活用できる方法はないかと調査研究し、会員である中村稔弁護士にも相談した。しかし、任意団体への寄付は、一〇〇〇万円に対して贈与税三八七万五〇〇〇円、当会の手取額は六一二万五〇〇〇円を動かすことはできなかった。この時の経験が後の「公益信託」の発想につながったのである。

 翌年一月八日、東京神田・トミーグリルでの定例理事会で、六一二万五〇〇〇円に対する年間利子三八万六〇〇〇円の運用によって、新しい詩集賞を創設することが決められた。その要項は次の通りである。

一、賞の名称を「現代詩人賞」とする。
二、賞の性格を中堅以上の詩人の顕彰とする。
三、実施を一九八三(昭和五八)年度からとし、同年に第一回の贈呈式をおこなう。贈呈式は「日本の詩祭」において、H氏賞とともにおこなう。
四、規約その他、運営に関する詳細は、今後の理事会で決定し、一括して本年度定例総会(七月末)に報告、承認を得る。

 なお、その後澤野氏から、一九八二(昭和五七)年より毎年継続的に六〇万円を寄付するとの申し出があった。会ではこの金額を「現代詩人賞」運営費に加えることとした。

 こうして、八三(昭和五八)年三月五日、朝日新聞社青山寮で第一回現代詩人賞の最終選考が行なわれ、飯島耕一詩集『夜を夢想する小太陽の独言』(思潮社)が受賞詩集に決定した。贈呈式は、五月一日、東京新宿・朝日生命ホールでの「日本の詩祭」席上で行なわれた。

 その後、「平澤基金」の「公益信託」化に並行して、「澤野基金」を「公益信託」にする手続きも進められ、八五(昭和六〇)年四月三〇日、文部大臣の許可がおりた。

 正式の名称は「公益信託現代詩人賞澤野起美子基金」。基金額は、最初に寄付された一〇〇〇万円をのぞいた二〇〇〇万円で、発足時の役員は次の通りであった。

(信託管理人)井上靖。(運営委員)安西均、伊藤桂一、犬塚堯、郷原宏、新川和江、鎗田清太郎。

 井上靖没後の信託管理人は伊藤桂一で現任。運営委員では安西均、犬塚堯の死去、伊藤桂一の信託管理人への転任にともない、一色真理、菊田守、木津川昭夫が後を継いでいる。

 なお、「平澤基金」「澤野基金」ともに三菱信託銀行に寄託され、「貸付信託」「金銭信託」として運用されている。

国際交流

 (1)一九五〇(昭和二五)年一一月三日、フィリピンの詩人ニーナ・エストラダ夫人を迎えて、帝国ホテルで懇談会を開いた。その連絡には木下常太郎常任理事があたり、フィリピンの文学事情に詳しい福田陸太郎のほか、高田敏子、滝口雅子、中村千尾、堀内幸枝が出席した。

 (2)一九五一(昭和二六)年三月二八日から三日間、アジア・アフリカ作家会議東京大会が開かれ、アジア諸国一一か国、アフリカ六か国および日本代表を加え、七七名が参加した。AA作家日本協議会には草野心平が個人として加わり、本会からは黒田三郎理事長が同会委員として、大会準備会にも出席した。総会並びに分科会には、詩人代表として草野心平が出席し、会員の壺井繁治、岡本潤、志村辰夫、大島博光、滝口雅子らも参加した。

 (3)一九六一(昭和三六)年九月一日、アメリカの詩人ルース・ステファン女史との懇談会を虎ノ門キムラヤで開き、西脇順三郎、鍵谷幸信、嵯峨信之、木原孝一らが出席した。また、同夜の理事会にも女史を招き、村野四郎会長はじめ各理事と歓談した。

 (4)一九六二(昭和三七)年九月、ベルギーで開かれる「第六回国際詩人ビエンナーレ」には、会代表も決まっていたが、旅費の関係で断念。渡欧する小林正東大助教授に、本会からのメッセージを託した。

 (5)一九七一(昭和四六)年九月、イギリスのダブリンで開かれた「国際ペン大会五〇周年大会」に、安藤一郎が参加した。

 (6)一九七二(昭和四七)年九月一日から四日まで、ベルギーのクノック・ル・ズートで、「創立二〇周年国際詩人ビエンナーレ」が開かれ、福田陸太郎が出席した。四〇か国三五〇名の詩人が参加した。

 (7)一九七七(昭和五二)年九月二九日、東京新宿・紀伊國屋書店サロンで、スティーヴン・スペンダーとの懇談会が開かれ、西脇順三郎と上林猷夫理事長とが出席した。上林理事長が「日本の詩人へのメッセージ」を希望したところ、一九七一年版の詩集(“The Generous Days”)に添えて、次のような自筆の手紙が届けられた。

日本の詩人に挨拶を送るに際して、特に翻訳者の方々に声をかけたいと思いますが、というのも、日本語を全然知らない私としては翻訳者に頼らなければ、皆さんの詩は読めないからです。マスメディアに時間をとられたり、気をそらされたりすることが益々多くなっている世界では、ときどき私は詩というものが、生き残る可能性のある数少ない文学形式の一つであると思います。理由は、詩作品が短い、凝縮されたもの、文学のまさに精髄だからです。

詩はまた、詩人と読者の関係を前提としますが、この関係は一人の人間つまり作者が、もう一人の人間つまり読者と、コミュニケイションを行なうという関係であり、これは今日の宣伝活動の時代に抵抗するものであります。したがって、全く実際的な理由に基いて私が信じているのは、詩は生き残るということであります。そうした目的に寄与されている日本の詩人の方々に挨拶を送る次第です。

一九七七年十月一日

スティーヴン・スペンダー 
(徳永暢三訳) 

 (8)一九八二(昭和五七)年一月一九日、東京新宿・俳句文学館大会議室における「現代詩ゼミナール」に、ベルギーの代表的詩人ジュリエット・アデルカ夫人を招いて講演を行なった。通訳と紹介は川田靖子。夫人は講演の最後に、①「世界の子供の詩の日」に日本参加の誘い。②これを機会に日本・ベルギー両国間でアンソロジーの交換をしては、との二つの提案をされた。

 (9)一九八五(昭和六〇)年四月二二日、東京南青山・銕仙会能楽研修所の能楽堂で、「カレワラ出版一五〇年、フィンランドの詩と文学の夕べ」が催され、満席二〇〇名の観客を集めた。

 これは国際交流基金招聘により、当会が受入れ団体となって実現したものである。フィンランドから来日したのは、ラルフ・フルデン教授(詩人。ヘルシンキ大学北欧語言語学教授。スエーデン語文学協会会長)、ペンツティ・サーリッツア氏(詩人。ラテン・アメリカ文学の翻訳者としても著名)、マルヤ・レーナ・ラウタリン女史(フィンランド文学インフォメーション・センター理事)の三氏と、在ヘルシンキの北欧文学研究者大倉純一郎氏であった。これらの人々の来日とイベントの実現には、前フィンランド大使人見鉄三郎と元会長大岡信の多大な尽力があった。

 会は講演、フィンランド語・日本語による詩朗読、能舞「相聞」(芥川龍之介詩)が観世栄夫ほか銕仙会有志によって演ぜられた。会終了後、明治神宮前の南国酒家で歓迎パーティ開催。鎗田清太郎理事長の司会で、中村真一郎の乾杯発声、吉増剛造、白石かずこ、伊藤桂一らの歓迎の言葉、来日三氏の挨拶とつづき、最後にフィンランド大使館文化担当官ライチネンの謝辞をもって閉じた。

 (10)一九八七(昭和六二)年一二月、当会宛にブラジル・サンパウロ市の文化センターから、「国際視詩展」への出品依頼があり、次の二名の理事が有志参加した。

 上林猷夫「叫び」(本人自書)

 秋谷 豊「遠征」(今井満里書)

 (11)一九八八(昭和六三)年一月一四日から一七日まで、第三回アジア詩人会議が、台湾・台中で開催された。参加した日本の詩人は、本会会員の青木はるみ、秋谷豊、石原武、大石規子、唐川富夫、北原政吉、高橋喜久晴、林立人、丸地守ら三六名。アジア地域八か国にオランダを加えた九か国の詩人約二〇〇名が参加した。大会では高橋喜久晴が「〝アジア現代詩集〞について」、石原武が「アジア詩の諸相」と題して講演した。

 (12)一九八八(昭和六三)年三月一五日、ニカラグアの代表的詩人エルネスト・カルデナル神父の歓迎夕食会を、蔵前工業会館で上林猷夫会長はじめ理事全員と会員有志の参加で開いた。ニカラグア大使も出席し、通訳を田村さと子会員がつとめた。

 (13)一九八八(昭和六三)年五月二四日、現代フィンランドの代表的詩人カイ・ニエミネン、同国ラップランド語系詩人のニルス=アスラク・ヴァルケアパーを迎えての、「フィンランドの詩と文学の夕べ」が、東京南青山の銕仙会館で開かれた。両氏の来日は大岡信の斡旋により実現したもので、当夜の主催団体は日本現代詩人会と北欧文化協会であった。

 ニエミネンは日本語で講演し、俳優の橋爪健が二詩人の作品を朗読した。また、観世栄夫が、アレクシス・キヴィの詩「スオミの地」を朗唱し、ヴァルケアパーは「ラップの歌」を、北原篁山の尺八伴奏で歌った。両詩人には今回も在ヘルシンキのフィンランド文学研究家大倉純一郎が同行した。終って三氏をかこんでの懇親パーティを、明治神宮前の「南国酒家」で催した。

 (14)一九八八(昭和六三)年一一月一四日から一八日まで、第一〇回世界詩人会議がタイのバンコックで開かれ、二〇か国約三〇〇人の詩人が参加した。日本からは会員の高市順一郎、支倉隆子らが参加、意見発表を行なった。

 (15)一九八八(昭和六三)年一一月二九日、「地球の詩祭」出席のため来日していた韓国、台湾の詩人たちを迎え、本会主催の交歓会が、東京新橋・蔵前工業会館で開かれた。招待詩人は韓国からの金光林、金洞玄、金仁淑の三氏、台湾からの陳千武、林宗玄、杜芳格の三氏で、日本側からは三四名の詩人が参会した。

 (16)一九八九(平成元)年五月二〇日、国際交流基金で来日したアメリカの詩人ジョン・アッシュベリーを迎えて、当会と東京アメリカンセンター共催で、「朗読会」が開かれた。場所は東京南青山・銕仙会能楽研究所。大岡信が司会と「アッシュベリー氏と詩空間」のインタビュアーをつとめた。アッシュベリーの自作詩朗読・吉増剛造の日本語訳詩(高市順一郎訳)の朗読などがあった。

 (17)一九九〇(平成二)年八月二二日から二六日まで、韓国ソウルのラマダ・イン・オリンピアで、第一二回世界詩人大会が開催された。本会の秋谷豊会長は日本代表(ゲスト・イン・オーナー)として招待された。

 主題は「詩における東洋と西洋」「詩とイデオロギー」「現代文学の二一世紀の展望」。参加四五か国六〇〇名におよぶ詩人が参加した。日本からは本会会員を中心に四〇名が参加した。秋谷豊会長は基調講演「詩における東西の出会い」を行なった。また、各分科会で小海永二、斎藤怘、高市順一郎らの本会会員によるスピーチがあった。ポエトリ・リサイタルでも多くの会員が登場した。この大会にはビート派の詩人アレン・ギンズバーグ(米)も参加、その言動は話題になった。

 (18)一九九〇(平成二)年には、九月一日ペルーの代表的詩人アントニオ・シスネロスの歓迎会。一一月二六日、ソビエトの日本文学研究者アレキサンダー・ドーリンの歓迎会を開いた。いずれも二〇―三〇名の規模で、親密な話し合いをした。

 (19)一九九一(平成三)年四月、アメリカの詩人ケネス・コークが来日。同月二〇日、東京アメリカンセンターと日本英米詩協会共催で、私学会館において「朗読会」を開いた。会員の高市順一郎がコーディネーターをつとめ、斎藤和明、長谷川龍生、原子朗、宮本むつみ、鎗田清太郎らが出席した。

 また、同年五月二四日、イギリスの詩人ジョン・シルキンが来日。六月一日の「日本の詩祭」に来場、自作詩を朗読した。

 七月三〇日、オマーンの詩人ヒラール・アルアメリーの歓迎会を、十条のそば屋「松屋」で開いた。オマーンの詩の情況についての話、アラビア語による自作詩朗読があり、秋谷豊会長、伊藤桂一がこれに応えて、日本語の詩を朗読した。

 (20)一九九二(平成四)年、ドイツの詩人スツペテッキ女史が来日。一〇月三〇日、神楽坂・エミールで、「スツペテッキ、宮下啓三(慶大教授)を囲んで、バルラッハの芸術を語る夕べ」を開いた。バルラッハはロダンと並ぶ大彫刻家で、その声価は死後(一九三八没)益々高まっている。女史と宮下氏はその研究家、五六名の参加者があった。

 (21)一九九三(平成五)年八月二〇日―二三日の四日間、ソウルで「第四回アジア詩人会議」開催。メインテーマ「アジア現代詩の文明観」、サブテーマ「自然と人間の生命」。アジア諸国にフランスを加えた一〇か国約四〇〇名が参加。『アジア詩人会議アンソロジー』(四二八頁)も同時刊行された。会場はラマダオリンピックホテル、朝鮮日報社ホール、エスポ(万博)会場。日本からの参加者五一名(うち本会会員二五名)は、会議運営の中心的役割を果たした。

 同年一二月六日、会の国際交流事業(秋谷豊常任理事担当)として、カナダの詩人ゲーリー・ゲデスを招き、有楽町・ニュートーキョー特別室で交歓会を開いた。ゲデスは難民救済にも力を注ぐ詩人。

 (22)第一七回世界詩人会議日本大会―’96前橋

 一九九六(平成八)年八月二二日〜二六日の五日間、群馬県前橋市で日本最初の「世界詩人会議」が開催された。この大会は秋谷豊を開催委員長とし、前橋市が予算・施設・人員等について全面的にバックアップして行なわれた。秋谷主宰の「地球」グループはもちろん、地元群馬の詩人たち、本会会員はその中核となって活動した。開催委員会の構成は、秋谷豊委員長、「名誉顧問」小寺弘之(群馬県知事)、萩原弥惣治(前橋市長)、「顧問」関根正喜(群馬県教育長)、布施川富雄(前橋市議会議長)、金子才十郎(前橋商工会議所会頭)。「開催委員」は二六名で、詩人から伊藤桂一、新川和江、杉山平一ら一五名、歌人から近藤芳美ら四名、俳人から金子兜太ら三名、前橋市関係から助役ら三名、それにニール・ヘンリー・ローレンス司祭(聖ベネディクト修道会司祭)が加わった二六名で構成された。「実行委員会」は秋谷委員長以下五三名で、これらの人々はさらに部門別に役割分担をして活動した。

 大会テーマは、「自然と人間―詩で語ろう、人類の未来・21世紀への発信―」。参加者は国別で二七か国、地域別には海外詩人一七四名、日本詩人六三二名で、計八〇六名。エキジビション、公開プログラム参加者一四二七名。関係者や報道関係者を加えると、参加者総数は二八八三名にのぼった。

 大会第一日(八月二二日)は、登録受付と前夜祭で、映画「眠る男」の上映、各国代表歓迎夕食会のあと、群馬交響楽団のコンサートがあった。第二日(八月二三日)は、開会式と全体会議。各国代表による講演と朗読。夕刻から共同記者会見とカクテルパーティ。エキジビションとして、日本舞踊、点前、生け花、俳句朗詠があった。第三日(八月二四日)は、九会場に分れての分科会で、たとえば「ハイテク時代の詩」、「世界最短の詩・HAIKU」、日本詩人と外国詩人との「連詩」などが行なわれた。また、前橋文学館前の広瀬川緑道で「野外朗読会」もあった。夜はグリーンドーム前橋での薪能鑑賞会。第四日(八月二五日)は、一般公開とし、講演と朗読を組み合せた「詩の古典と現代 そして未来」――「司会」原子修、加藤耕子。「講演・朗読」瞿麦(中国)、金子兜太、杉山平一、島田修二、アンソニー・スウェイト(英)、金光林(韓国)、ホルヘ・ボッカネラ(アルゼンチン)、谷川俊太郎。この後、群馬県民会館で、「ハイビジョン映像詩の世界―NHK番組〝山河憧憬〞」の上映があり、それにつづけて女優の松坂慶子の朗読、インタビュー形式による秋谷豊、新川和江の談話があった。最終日(八月二六日)は県内視察ツアーで、赤城山、群馬フラワーパーク、土屋文明記念館等を、約二五〇人がバスで回った。こうして、日本初の「世界詩人会議」は、大成功裏に終幕した。

 (23)一九九七(平成九)年五月一八日、神楽坂・エミールで、国際交流シンポジウム「世界の詩をどう見るか」を開催。シンポジウムのパネラーは、ジェームズ・グラハム(米詩人)、佐々木久春(詩人、秋田大教授)、何積橋(中国詩人)で、コーディネーターは石原武。つぎに、権宅明(韓国詩人)が「韓国詩の現在」と題して講演。つづいて李承淳、金美恵の韓国女性詩人が、韓・日両語で詩を朗読した。最後に、アレン・ギンズバーグの追悼に入り、石原武が追悼スピーチ、I・グラハムがギンズバーグの詩を朗読、丸地守常任理事が諏訪優訳の詩を朗読した。

 (24)一九九八(平成一〇)年一二月一九日、神楽坂・エミールで、二人の中国詩人を招き、「詩の越境――北島・芒克両氏を迎えて」が開かれた。この会は「現代詩ゼミナール・東日本」(辻井喬常任理事担当)と、「国際交流」(原子朗常任理事担当)との共同開催のかたちをとって開かれた。この企画の実現には、当日総合司会をした財部鳥子理事と、コーディネーターをつとめた是永駿(大阪外語大教授)の尽力が大きかった。北島(ペイトウ)は、九八年以降海外に移住している反体制派詩人。ノーベル文学賞候補にあげられたこともある。今回はアメリカからの来日であった。芒克(マンクウ)は中国在住だが、やはり反体制派詩人。この両氏に田村さと子、辻井喬、野村喜和夫が加わって、詩人の亡命と「内なる心的越境」の問題が論ぜられた。会員参加六七名、一般参加六三名。

 (25)一九九九(平成一一)年四月四日〜一二日の九日間、「日本現代詩人友好訪中団」の中国視察旅行が行なわれた。これは日中文化交流協会の後援で実現したもので、本会は主催者ではないが、財部鳥子理事の主導により、企画推進の母胎となった。団長原子朗常任理事、副団長財部鳥子理事。一行は北京をはじめ、西安、蘇州、上海と巡り、中国の詩人と交流した。その間、中国作家協会(北京)と会議「伝統と未来」をもち、招待宴に出席した。上海でも中国作家協会の招待宴があった。参加者は原、財部のほか理事の難波律郎夫妻、三井葉子、会員の八木忠栄、山本哲也らで、詩人の窪田般弥夫妻らも参加した。中国作家協会から李錦埼、日中文化交流協会から佐藤洋子の二氏が随行した。

 (26)二〇〇一(平成一三)年四月一三日、日中文化交流協会の招きで、中国作家代表団五名が来日。日本現代詩人会では一行のなかの女性詩人李小雨氏を招き、東京ステーションホテルで歓迎昼食会を開催。長谷川龍生会長の歓迎挨拶のあと二時間余にわたり、中国の詩の現況、教育などに関連した質疑応答をした。李小雨氏は「月刊誌「詩刊」の発行部数は三万部。現代詩だけでは読者がついてこないので伝統的な詩も載せている。定型詩は小学校の教科書に載っていて、母親が暗誦させている。自由詩を書くのは若者が多い。同人誌もたくさん出ている。彼らは北島や舒婷の詩はもはや「時代遅れ」といい、物の見方に対立点がある。若い詩人たちは〈平民化〉を主張し、從来のインテリ詩人を打倒しようとしている。またブラックユーモア的に人生を茶化したり、伝統に対する極端な反感をもったりするものもいる。現代詩は、中国の詩を豊かにし、多彩なものを生み出し、人間の生存をうたう大きな役割を持っている。中国はいま、現代と伝統をどう融和させるか課題となっている。詩集は自費出版が多い。出版社は一〇〇〇冊以上でなければ引き受けない」などと語った。

 (出席者)長谷川龍生(日本現代詩人会会長)葵生川玲(同理事長) 原子朗 鎗田清太郎 丸地守 白石かずこ 新井豊美 財部鳥子 呉美代 新藤凉子 こたきこなみ 木津川昭夫 西岡光秋 鈴木東海子 八木忠栄 山本かずこ (担当理事:八木忠栄)   

 (27)二〇〇二(平成一四)年七月五日、「〈東京の夏〉音楽祭2002」で来日したロシアの詩人ゲンナジイ・アイギ氏による「詩の朗読と講演の夕べ」を東京神楽坂エミールで開催。

フォーラムは丸地守理事長の開会挨拶、木津川昭夫会長の歓迎挨拶ではじまり、翻訳者のたなかあきみつ氏によるアイギ氏についての紹介があり、アイギ氏は挨拶で「日本は五年前につづいて二回目だが、先祖を思い出すような気持になり、ふるさとに帰ったように懐しい」と語った。講演は、「一八歳までチュヴァシ語で詩を書いていた。その後はロシア語で書くようになった。フランス詩などの翻訳ではチュヴァシ語を使っている。今回、宮沢賢治の作品を読んだが、「チュヴァシのランボー」と呼ばれたミハイル・シェシベルに作風が似ている。彼は賢治より三歳年上だった。またチュヴァシでは芭蕉がロシア語から訳され、よく知っている。チュヴァシは多神教の国であり、祖父は霊媒師だったし、私はクリスチャンである。草原は宗教的なものであり、草原からすべては始まる。チェヴァシは森と草原が入り混じった土地である。かつて人々はソ連的な生活を営んでいたし、イデオロギーがすべてだった。そして行動することも。その反対の沈黙と静寂が私には必要だった。自分について考えるには沈黙しなければならなかった」と語った。朗読は『アイギ詩集』から「おまえわがしじま」「いまやいつも雪」など一〇編ほど読まれた。

 ゲンナジイ・アイギ(Gennady AYGI)
 一九三四年、旧ソ連チュヴァシ共和国に生まれる。チュルク系少数民族。作風はロシア・アヴァンギャルドの流れを汲む。精神の純粋性を寡黙な言葉に封じこめた静謐な詩は世界中で高く評価され「ヴォルガのマラルメ」の異名をとる。’87までのほぼ三〇年間はソ連国内での出版を禁じられていたが、以後ロシア内外で詩集が出版されている。

(担当理事:八木忠栄)  

 (28)二〇〇四(平成一六)年五月二二日「日・仏国際交流の午後――日仏語現代詩集発行記念祭」が京都市北文化会館で開催された。この会は、日本現代詩人会後援のもとに、関西詩人協会(代表・杉山平一)創立一〇周年記念事業として発行の日・仏語訳詩集『言葉の花火』発行記念として京都詩人の会とともに開催。

 日本現代詩人会は菊田守会長が祝辞を述べ、その中で「日本の詩」――松尾芭蕉について語った。講演は、宇佐美斉氏(京都大学教授)

 「アルチュール・ランボーの日本語訳について」。他に、「日本の伝統芸能」と題してのお話と、河村禎二氏(重要無形文化財保持者)と河村和明氏の観世流仕舞「土蜘蛛」を披露。シャンソンは吉永修子の「パリの空の下」「詩人の魂」「枯葉」など他数曲を聞いた。参加者は一三〇名。

 (29)二〇〇五(平成一七)年三月二七日「陳栄東氏を迎えてのセミナー」が、三月二七日東京神楽坂エミールで開催された。菊田守会長の「芭蕉と杜甫=徒歩」というユーモラスな開会挨拶。財部鳥子による講師紹介。講演は陳東東氏の「私の詩の周辺」。通訳は、是永駿氏。陳氏は「私の個人的テーマは中国詩の状況にかかわってくる問題である。二五年前、模範にできる詩が読めないから、自分で書き始めたのが出発。周囲に偽りの詩が目についたが、ギリシャのエリティスの詩に出会って精神をかきたてられた。中国の同時代は文化大革命以後に始まった。朦朧派から八〇年代詩人まで一括して前衛詩人と呼んだりする。詩人たちは地下に追いやられた。いま、文革の廃から現代中国詩を生み出しつつあり、詩人の生存の内面生活がそこにからまっている。私は雑誌「傾向」を発行して、節制と秩序を中国詩の基とし、自立を目ざしてきた。詩は類型化を避け、挑戦的でクリエイティヴで、高度な自立を求めるものだ」と語った。また、是永駿氏の講演は「中国詩の現在」。是永氏は「文革後、現代中国では同時代詩人が唐代詩人以上に出現しているらしい。陳東東はその重要な詩人の一人である。彼が、詩の周縁よりも詩そのものを見るという姿勢を支持したい。中国では現代詩も音楽性が高い。自由詩もきちんと韻を踏む。中国詩は成熟過程にあり、陳東東の世代は、本来の詩に回帰しようとしている」と語った。

 陳東東略歴

 一九六一年上海市に生まれる。八八年詩誌「傾向」創刊。九三年海外で文芸誌「傾向」発刊。詩集『海神の一夜』他。邦訳『雨の中の馬』(財部鳥子訳)。(担当理事:八木忠栄)

 (30)二〇〇五(平成一七)年一一月一八日〜二〇日、日本現代詩人会後援で、詩誌『地球』創刊55周年記念「地球の詩祭2005・アジア環太平洋詩人会議2005東京」(運営委員会代表秋谷豊)を東京品川プリンスホテル新館で開催。司会は丸地守、北岡淳子。開会宣言石原武。歓迎挨拶は伊藤桂一(日本芸術院会員)、葵生川玲(日本現代詩人会理事長)、中村不二夫(日本詩人クラブ会長)、金鐘海(韓国詩人協会会長)。主宰者献詩では秋谷豊が、詩『この地球の上のどこかで』を朗読。英文詩(石原武訳)朗読は宮澤肇。基調講演は、新川和江で、「自然と生命にとって、電子文字の現代社会に、ある種の危機を感じる」と現代文明に対する詩人としての提言を述べた。記念パーティーでは、伊藤桂一、木津川昭夫、以倉絋平が祝辞を述べ、寺田弘が祝杯の音頭をとった。スピーチは菊田守、甲田四郎他であった。本会議三九六名、交流パーティー一四〇名と盛大に行われた。参加詩人の国名は、日本、アメリカ、中国、韓国、インド、台湾、オーストラリア、モンゴル、バングラディシュ、コンゴ他。主催は「地球」社ではあるが、日本現代詩人会の可成りの会員が協力したこともあり、特記することとした。

 (31)二〇〇六(平成一八)年九月一六日東京神楽坂エミールで、国際交流2006「クレオールの詩と真実―ハイチの詩人クリストフ・フィリップ・シャルル氏を迎えて」を開催。安藤元雄会長が挨拶とともに司会進行をつとめシャルル氏を紹介した。シャルル氏は「一八〇四年から今日にいたるさまざまなハイチ文学と詩の諸傾向」を語り、ハイチ文学二〇〇年にわたる夢と苦闘の跡を簡潔に辿って、すべての時代を通して「われわれとは誰なのか」という切実なアイデンティティの問いが続いた。また、シャルル氏は、「言葉の循環」など四篇の自作詩を朗読、「ぼくはおまえの豊饒な水に運ばれるがまま/ぼくを蘇生させ解き放つ愛よ」―と、声に力強い響きと独特なリズムがあり、圧巻だった。

(担当理事:野村喜和夫)  

 (32)二〇〇八(平成二〇)年一一月四日東京早稲田奉仕園内・日本キリスト教会館で、「アタオル・ベフラモール氏講演+朗読会―トルコ人にとって詩とは?」を開催。通訳はイナン・オネル氏。斎藤正敏副理事長の開会挨拶。つづいて、特に当日来駕された在日トルコ共和国大使セルメット・アタジャンル氏に挨拶をいただいた。また、会員の新井高子がベフラモール氏について詳しく紹介し、講演に移った。講演は、「トルコ人は詩を身近に考えている」という言葉に始まって、13世紀以降のトルコの詩と黎明と変遷について述べ、さらに「トルコでは、小説家はジャーナリストのたぐいと解釈され、詩人は神秘的な哲学者・預言者として扱われ、深く尊敬されている」と語った。また、二〇一〇年は「トルコにおける日本年」なので、日本の詩を紹介したいとも述べた。

 アタオル・ベフラモール略歴
 一九四二年イスタンブールに生まれる。アンカラ大学文学部ロシア語科卒。第一詩集『アルメニヤ人大将』(65)以降、前衛的な社会派詩人として評価が高い。ロシア文学翻訳家としても著名。プーシキン賞、トルコペンクラブの03年詩人大賞受賞。

(担当理事:八木忠栄)  

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