日本現代詩人会とは
日本現代詩人会六〇年史
鎗田清太郎
丸地 守
『資料・現代の詩2010』(日本現代詩人会編)より
創立前史――戦火と廃墟のなかで――
太平洋戦争勃発の年、一九四一(昭和一六)年当時、詩人の団体を名乗るものには、『出版年鑑』によれば、次の四つがあった。( )内は創立年、代表者名。
日本詩人会(一九三三、白鳥省吾)、日本詩協会(一九四〇、大木惇夫)、日本詩人協会(一九四〇、岩佐東一郎)、日本青年詩人連盟(一九四一、塩野筍三)。
ところが、翌四二(昭和一七)年後半期には、これらの詩人団体名はすべて消え去った。すなわち同年六月一八日、内閣情報局の斡旋により、日本文学報国会が発足し、これらは同会の詩部会に吸収解消させられたからであった。この時、一九二六(昭和一)年創設の文藝家協会(終戦後、日本文藝家協会として再発足)も解散させられた。
しかし、このような言論統制にもかかわらず戦局は日ましに悪化し、それは文芸活動、詩活動の舞台である用紙の払底という事態を招いた。そこで政府は、一九四三(昭和一八)年末から、企業整備の名による文芸雑誌の統廃合を実施することにした。この当時、文芸雑誌と類別されるものは約二〇〇誌あったが、これらが六二誌に統合されたのである。この中には文芸一般誌をはじめ、短歌、俳句、詩、川柳等の詩歌誌も含まれていたが、そのうち約五分の一は、地方別に統合された同人誌であった。
詩誌の最終統廃合が終ったのは一九四四(昭和一九)年六月で、結局「日本詩」「詩研究」(いずれも宝文館発行、北村秀雄編集)の二誌だけが残った。しかし、表面に出ないかたちで配付されていたミニ詩誌などもないではなかった。たとえば北園克衛編集の「麥通信」は、四ページほどの会員配布誌であったが、前記二誌と時を同じくして発行されていた。
このように詩と詩人は、質的な面での思想統制、量的な面での経済統制に圧迫されながら生き延びざるをえず、ペンを折って詩作を断念する者、あるいは、詩作はつづけながらも発表せず、これを筺底に秘する者などもいた。
しかし、その反面、詩というものがこんなに一般庶民の家庭に浸透した時代もなかったという逆現象もあった。朝、ラジオのスイッチを入れると、まず詩を朗読する声が流れ出すという日がつづくということもあった。たとえば、それらの詩は、高村光太郎『大いなる日に』、大木惇夫『海原にありて歌へる』、尾崎喜八『組長詩篇』、北原白秋『海道東征』、日本文学報国会詩部会編『辻詩集』などに収められた詩篇であった。
これらの詩篇が「一般庶民の家庭に浸透した」と先に言ったが、それは当時の支配的マスコミとしての新聞とラジオによって、人々の耳目に広く伝達されたということを意味したに過ぎない。そこには情報局等の官僚や、それに協力するマスコミ人による操作もあったであろう。人々が真にその詩に共感したかどうかは別問題である。これらの詩篇は終戦後、詩人の戦争責任問題として、クローズアップされるにいたった。
しかし、単純で観念的な戦争プロパガンダの詩は論外として、権力によって不可抗力的に戦場に引き出された詩人たちが、その体験と感懐を詩に托したものまで、否定はできないであろう。そこからは幾多のすぐれた詩集が生まれたし、戦争体験を除いて、戦後詩は語れない。「荒地」「列島」の詩も、石原吉郎などの詩業もこれにつながるものである。
こうして運命の日、一九四五(昭和二〇)年八月一五日、日本無条件降伏の日が近づくのだが、後にすぐれた詩業を開花させた詩人たちは、どこで何をしていたのであろうか。これを木原孝一『日本の詩の流れ』(ほるぷ出版、一九七五・一二)から引いてみる。
戦争末期、多くの詩人たちは生まれ故郷や縁故を頼って疎開した。西脇順三郎は故郷の新潟県小千谷で植物を観察しながら『旅人かへらず』の詩篇を書いていた。竹中郁は神戸の自宅を焼け出され、兵庫県加古郡上荘村見土呂の農村にいた。北川冬彦は信州川中島に近い農村の、ボロボロの蚕室に疎開していた。北園克衛は戦争の終った八月十五日、ちょうど妻子の疎開さき、新潟県三条市一乗院を訪ねていた。
そして木原はさらにつづけて、次のように書く。そこには多彩な戦後詩人たちの若き日の素顔が見える。
昭和二十年八月十五日。突然、戦争の終ったその日は、日本じゅうが晴れ渡っていた。その日の正午、兵士たちはみんな整列して終戦の詔勅をラジオで聞いた。山本太郎海軍中尉は相模湾に面した辻堂海岸の松林のなかで、米軍の上陸に備えてタコツボを掘っていた。田村隆一海軍中尉は滋賀県大津航空隊の小隊長をしていた。鮎川信夫陸軍二等兵は戦病のためスマトラから内地還送となり、福井県境の山のなかで畑をつくっていた。長谷川龍生は学徒動員で、大阪市の松阪屋百貨店の屋上の高射砲陣地へ砲弾をとどけに来たところだった。薬専の学生だった茨木のり子も学徒動員で世田谷の海軍療品廠の倉庫係を命ぜられていた。高田敏子は台湾の高雄にいたが、戦火をのがれて郊外の圓林という村へ疎開し、竹林とサボテンを眺めてくらしていた。南洋興発社員だった黒田三郎は、ジャワの山中にある製糖工場にただひとりの日本人として孤独に耐えていた。
こう書き記す木原孝一自身は、前年七月一日、軍属として硫黄島に上陸。一九四五(昭和二〇)年二月一日、病気のため内地に帰還。その直後の二月一九日に米軍上陸、日本軍全滅の報を聞くという経験をしていた。
敗戦とともに、官製団体である日本文学報国会は、即刻解散した。新時代に最も早く反応したのは、いわゆる左翼系文学者であって、秋田雨雀、蔵原惟人、中野重治、宮本百合子ら九人を発起人として、新日本文学会結成の呼びかけがなされ、同年一二月に結成大会開催、翌四六年三月に「新日本文学」第一号が刊行された。また四五年一二月、文藝家協会も日本文藝家協会と改称して再発足、会長に菊池寛が就任した。
詩誌復活の第一号は、北九州の一角から起こった。岡田芳彦、出海渓也、鶴岡高らによる「鵬」(四五年一〇月創刊、三号から「FOU」と改称)である。
一九四六(昭和二一)年に入ると、一月、旧「文藝汎論」復活のかたちで「近代詩苑」(岩佐東一郎、北園克衛)が発刊された。
また後述する現代詩人会の創立に関係の深い「現代詩」は、四六年二月創刊。浅井十三郎は、戦前アナキズム系の詩人として活躍し、東京にいたこともあるが、帰郷(新潟県北魚沼郡広瀬村)して、農民運動のかたわら「詩と詩人」を編集・発行していた。この「詩と詩人」は、四五年五月までつづき、五六号で休刊、四六年三月復刊。また、後の「荒地」メンバーに加わっていた福田律郎の「純粋詩」も四六年三月創刊。この同人には秋谷豊、小野連司らがいた。
この戦後詩の出発点ともいうべき一九四六(昭和二一)年―一九四九(昭和二四)年には、意欲的な多くの詩誌および詩集が発刊されたが、その詳細は、「戦後詩年表」を参照されたい。
創立集会まで
一九四六(昭和二一)年二月、新潟の「詩と詩人社」から「現代詩」が創刊された。「詩と詩人社」は、浅井十三郎が戦前から「詩と詩人」を出していた発行所名である。浅井は、その創刊号の「編集後記」に、「一切を白紙にして杉浦君に任した」と記しているように、編集を埼玉県浦和在住の杉浦伊作に一任した。創刊号は菊判四〇頁、定価一円五〇銭。部数は五〇〇〇部と公称したが、実数は不明。月刊の予定も、そのペースはかなり下回る。しかし、執筆者は全国の有力詩人を網羅していた。これを創刊号で見ると、岡崎清一郎、木下夕爾、近藤東、城左門、神保光太郎、中桐雅夫らの名が見える。また、北川冬彦は巻頭詩を書いていた。
一九四八(昭和二三)年、その北川冬彦が疎開先の信州からもどって、杉浦伊作のいる浦和に仮寓するようになった。いきおい北川と杉浦は親しくなり、杉浦の要請によると推定されるが、「現代詩」は主として北川が編集するようになった。そして、北川を中心とする「現代詩」同人が構成されるようになった。これを同誌三七号・昭和二五年七月号(収載内容は前年中に集稿したもののようだ)の同人名簿で見ると、次の二一名である。
北川冬彦、浅井十三郎、安西冬衛、安藤一郎、江口榛一、江間章子、大江満雄、岡崎清一郎、北園克衛、笹澤美明、阪本越郎、杉浦伊作、杉山平一、竹中郁、瀧口修造、壺田花子、永瀬清子、丸山薫、村野四郎、山中散生、吉田一穂。
ここには、戦前、戦中から活動していた日本の有力詩人の多くが名をつらねている。
かねがね日本文藝家協会、日本ペンクラブなどとは異なる、詩人による詩人の団体を結成し、詩人の地位向上や、権益擁護、親睦をはかりたいと考えていた北川冬彦は、まずこの「現代詩」同人を土台に、事を進めようと考えた。
北川の詩人団体設立に賛同し、相談相手になっていたのは、ことに村野四郎、大江満雄らであった。
前記「現代詩」(一九五〇、七月号)の「編集後記」で、北川冬彦は次のように書いている。
昨年末から、詩人の団体結成の要望と気運が旺んで、数回準備会が開かれたが、結成寸前で流産した。原因を考えて見ると、その目的やメンバーについて理想にはしり過ぎることにあったようだ。しかし、団体は是非とも必要である。で、われわれが中心となって一先ず、一つの親睦団体を作ることにした。これは、一つの団体である。全詩壇の団体ではない。この団体出現を機縁にして、尚幾つかの詩人の団体が出来、それらの聨合によって、全日本詩人聨合会のようなものが出来ればいゝのだと思う。初めから、網羅的に、目的的にやろうとするから成立しないのだ。われわれは実行力がある積りである。称して「現代詩人会」
このような状況のなかで、北川はとくに村野四郎と緊密に連絡をとり合い、発起人に北川、村野、大江のほかに安西冬衛、安藤一郎を入れることとし、五名連記の創立趣意書を謄写版刷りで作成し、一九四九(昭和二四)年一二月五日付で、発送した。発送先は、「現代詩」同人を中心とした四六人の詩人で、その文面は次の通りである。
冠省、こゝ一、二年来、詩人の団体結成の要望は切実で、幾つもの準備会が開かれましたが、余りに理想的なものを作ろうとして、すべて流産に終りました。それに鑑み、こゝに、親睦団体としての「現代詩人会」を発足させようと思います。御賛成入会いただければ幸甚に存じます。
一、毎月一回定期に集りたいと思います。
一、いろいろ仕事の発案も、集りのときどきに出ることゝ思います。
例えば詩人の社会的地位向上のための諸活動、内外文化機関との交渉連絡なぞ。
一、一年間の事務費として二〇〇円(主として通信費)を納めて戴くこと。
これは入会受諾と同時に願います。他に「会報」を出さない限り会費は集めません。
一、会結成の都合がありますので、入会の手続は来る十二月廿日までにお願いいたします。
一、今回入会をおすゝめした詩人は左の通りです。
(敬称略、順不同)
吉田一穂、丸山薫、安西冬衛、浅井十三郎、池田克己、伊東静雄、伊藤信吉、植村諦、江間章子、大江満雄、深尾須磨子、蔵原伸二郎、瀧口武士、瀧口修造、竹中郁、田中冬二、永瀬清子、岡崎清一郎、金子光晴、平木二六、小野十三郎、藤原定、真壁仁、三好達治、山中散生、北園克衛、山之口貘、笹澤美明、西脇順三郎、阪本越郎、杉浦伊作、杉山平一、壺田花子、菊岡久利、草野心平、神保光太郎、高橋新吉、岩佐東一郎、近藤東、木下常太郎、壺井繁治、岡本潤、城左門、村野四郎、北川冬彦、安藤一郎。
以上四十六名。
右にて来る一月早々発会の集りを持ち、早速発足したいと思います。
昭和廿四年十二月五日
発起人 安西冬衛
安藤一郎
大江満雄
北川冬彦
村野四郎
趣意書を発送した詩人四六名を、年齢別に見ると、五〇歳代が一三人、四〇歳代が三〇人、三〇歳代が三人で、最年長が深尾須磨子(五七歳)、最年少が杉山平一(三六歳)であった。北川冬彦(五〇歳)、村野四郎(四九歳)の構想としては、四〇歳代を中心とした現役第一線詩人の結集という考えがあったのではないか、と思われる。
こうして、一九五〇(昭和二五)年一月二一日午後二時から、有楽町駅前のレストラン「レバンテ」で、創立集会が行なわれた。この日までに回答のなかった者が三名(伊東静雄、伊藤信吉、菊岡久利)あったので、四三名の会員をもって、「現代詩人会」が発足したわけである。したがって、この日を会の創立日とする。
集会は、北川冬彦が今日にいたる「経過報告」をし、次に会員提案による左記五案を、討議のうえ可決した。
( )内は提案者。
一、詩書図書館の設立(草野心平)
二、現代日本詩年鑑一九五〇年版の刊行(真壁仁)
三、講演会の開催(草野心平)
四、研究会の開催(壺井繁治)
五、声明の発表(村野四郎)
この五項目について、次のような具体案を決め、実現に向けて努力することを申し合わせた。
一、早急に実現することは難しいが、出版社、同人誌、個人有志に呼びかけ、基金の寄付を求める。その趣意書を草野心平が起草し、雑誌等に発表、運動を促進する。
二、城左門が担当し、岩谷書店の予約出版として準備をすすめる。編集プランを二月例会に提出し、審議のうえ実行にかかる。印税は会の基金として、執筆者が寄付する。
三、今春四月上旬を期して、大々的に開催する。
四、詩以外の文化分野、たとえば、科学、音楽、美術、映画などの専門家から話を聴く会を催すこと。会員の専門的研究の発表も可。
五、詩人として対社会的に声明を出す要ありと感じ、会員意思の一致を見たときに実行する。
なお、今後の新入会員は審議して決めること、事務所は当面、発起人代表の北川冬彦方(東京都新宿区四谷須賀町一〇―一)に置くことを決めた。
この創立集会の後の広報活動として、発起人代表の北川冬彦が、毎月謄写版刷りで「報告」を発行、会員に配布するようになった。
第一回総会 ――初期の活動
一九五〇(昭和二五)年一二月一六日、神田駿河台・東京出版小売商組合講堂において、現代詩人会第一回総会が開かれた。出席者は北川冬彦、村野四郎、安藤一郎ら一八名であった。
座長に笹澤美明が推され、岩佐東一郎が書記をつとめて、議事が進められた。北川冬彦が創立後一年間の経過報告と会務報告を行なったが、ここで報告された五〇年度実施の主な事業は次の通りであった。
(一)創立記念「現代詩講演会」四月二二日、朝日新聞社後援、於朝日講堂。出講者=安藤一郎、深尾須磨子、西脇順三郎、植村諦、三好達治、高橋新吉、草野心平、山之口貘、近藤東、蔵原伸二郎、大江満雄、岩佐東一郎、吉田一穂。
(二)草野心平が一連の「蛙の詩」で読売文学賞を受賞したのを記念して、受賞記念「現代詩講演会」を開催。七月五日、読売新聞社後援、於読売講堂。出講者=藤原定、田中冬二、江間章子、壺田花子、村野四郎、三好達治、草野心平、真壁仁。
(三)講演会「ユネスコとは何か」七月九日、於東京出版小売商組合講堂。講師=山志田長博(外務省文化課)、松尾邦之助(読売新聞論説委員)――北川冬彦はユネスコへの関心が深かった。現代詩人会結成には、ユネスコ的発想があったかもしれない。
(四)「秋の詩講座」一〇月七日より毎土曜日午後一時より四時まで、五日間、於法政大学学生ホール。講座内容は次の通り。
一〇月七日 海外詩壇展望 「イギリス」西脇順三郎 「フランス」佐藤朔 「アメリカ」安藤一郎
一〇月一四日 現代詩の性格 「現実主義の詩」北川冬彦 「抒情詩と叙事詩」大江満雄 「超現実主義の詩」北園克衛
一〇月二一日 現代詩の方法 「レトリック論」笹澤美明 「心象論」村野四郎 「構成論」神保光太郎
一〇月二八日 現代詩の鑑賞 「諷刺詩の鑑賞」山之口貘 「女流詩人の作品鑑賞」深尾須磨子 「現代詩代表選集批判」藤原定
一一月四日 作品指導 三好達治、壺井繁治、阪本越郎、近藤東の四名が、開講期間中、受講者提出作品の添削講評を行なった。
この講座の会費は全期二〇〇円、一日限り五〇円で、聴講者延べ二二九名。収入一万三五〇円、支出六八九七円、差引き実収三四五三円であった。
また、事業計画として、次の事項について説明があり、承認された。
(一)現代詩人会賞(H氏賞)の創設、選考委員の選出。
(二)『日本詩アンソロジー』一九五〇年版、『現代詩十講』、『中学生のための現代詩鑑賞』の編纂・発行。
(三)一九五一年「春の詩講座」「詩展」の開催。その他。
創立第一年度の会計報告は、
収入 一万五二〇〇円
支出 一万 六三六円
繰越 四五六四円
で、この繰越金によって、「会則」「会員名簿」を活版印刷することが承認された。
最初の会則 最初の会則は一九条から成る簡約なものであった。起草者は植村諦が逐条読み上げ、出席者の意見を容れつつ補足訂正し、最終的に満場一致承認された。この会則は一九六〇(昭和三五)年一月一六日に全面改定され、さらにその後二四度にわたる部分改訂をかさねて、現行の会則にいたっている。
この当初の会則に特異な規定があるとすれば、その第五条であろう。すなわち、
第五条 本会の会員は創立の際に参加した四十三名を基幹会員とする。
これは今後の会員拡大はほとんど念頭になく、四三名を定員的なものとして意識していた証左と思える。
最初の役員 総会では役員選挙を行ない、幹事に村野四郎、北川冬彦、笹澤美明、安藤一郎、深尾須磨子、草野心平、植村諦、壺井繁治、神保光太郎の九名を選出した。さらに幹事の互選により、幹事長北川冬彦、副幹事長村野四郎、常任幹事安藤一郎、植村諦、笹澤美明、神保光太郎、壺井繁治、幹事草野心平、深尾須磨子と決定した。
また、現代詩人会H氏賞の第一回選考委員を、無記名投票で選挙、安藤一郎、北川冬彦、木下常太郎、草野心平、村野四郎の五名が選ばれた。
このようにして創立第一回総会を終り、会は順調な歩みをつづけることになった。
講座と出版活動
創立集会、第一回総会で確認された「講演会、研究会の開催」「会編集による出版物の刊行」は、きわめて活発に行なわれた。すなわち、
(一)一九五〇(昭和二五)年一〇月七日から五日間開催された「秋の詩講座」の記録を、講師が加筆訂正して、『現代詩十講』(付作詩指導)の書名で出版した。五一年三月、宝文館発行。二八四頁、定価二三〇円。装幀・阿部展也。
(二)五一年四月二二日、同二九日の二日間、神田駿河台・東京出版小売商組合講堂で、「春の詩講座」を開催、この講演記録を基にして、『現代詩新講』(二四八頁、定価二二〇円、装幀・寺田政明)を、同年九月、宝文館より出版した。
同書には、高見順、伊藤信吉が執筆しているが、この時点では、この二名のほか、菊岡久利、中村千尾、殿内芳樹(第一回H氏賞受賞者)、野長瀬正夫、山本和夫も入会しており、会員数は五〇名になっていた。
(三)『日本詩アンソロジー』(一九五一年版)は、岩谷書店出版が決まっており、同社発行の「詩学」にも一頁の予告広告が出ていたが、同社の経営悪化により中絶した。しかし、その後の努力により、一九五四(昭和二九)年三月、『年刊現代詩集』(第一集・一九五四年版)として、宝文館から刊行された。二五二頁、定価二六〇円、装幀・高橋錦吉。
(四)その後、『年刊現代詩集』は、「第二集・一九五五年版』を同年四月刊行。二一〇頁、定価二五〇円、装幀・北園克衛。『第三集・一九五六年版』を同年六月刊行。一九〇頁、定価二五〇円、装幀高橋錦吉。いずれも宝文館発行であった。
「現代詩人会」の名による『年刊現代詩集』は、この第三集が最後のものとなるが、これより一年前の五四年五月の総会で、『死の灰詩集』刊行が決議され、同年一〇月五日、宝文館より刊行(二〇四頁、定価二〇〇円、装幀・井上三綱)されたことを、特記しなければならない。このアンソロジーは、政治と文学、テーマ優先か文学的価値か等をめぐって、激しい論争を巻き起こした。その論争の評価については、見解の相違はあるにもせよ、詩人が人類・生物の存在を根底からおびやかす核兵器の製造、実験に断乎たる拒絶の意思を示すこと自体は、きわめて自然かつ当然といえるのではなかろうか。
(五)『死の灰詩集』の編集委員は、安藤一郎、伊藤信吉、植村諦、大江満雄、岡本潤、上林猷夫、北川冬彦、木下常太郎、草野心平、蔵原伸二郎、壺井繁治、深尾須磨子、藤原定、村野四郎の一四人。全国から寄せられた一〇〇〇篇におよぶ作品から、一二一篇を選んで収録した。この書と初版印税は、東大病院、東京第一病院に入院中の、第五福竜丸の被爆患者二二人に贈られた(同船の久保山愛吉無線長は、九月二三日死亡)。
この年九月、渡英した安藤一郎から『死の灰詩集』刊行を知ったスティーヴン・スペンダーは、「ブリティン・トゥデイ」一二月号に、「戦争・平和・詩」と題するエッセイを発表し、次のように述べた。
私は原子爆弾の幾人かの犠牲者について八百人の日本の詩人が関心を懐いていることに強い感動を受けた。にもかかわらず、私は私たちの側の作家たちが、彼等自身の心を捜し求め、真にいずれをなすべきかを自らに問い、詩の上でこれらのことに注意を向け、しかも確信をもつまでは発言を抑制しているように見受けられるのを嬉しく思っている(堀越秀夫訳。「詩学」一九五五年四月号掲載)。
(六)会の出版活動にはまた、『中学生のための続・現代詩鑑賞』一九五五年九月、宝文館発行、三一四頁、定価二五〇円、装幀・増田保之助、があった。これは五一年刊の『中学生のための現代詩鑑賞』の姉妹篇になるもので、編纂委員は、安藤一郎、上林猷夫、草野心平、蔵原伸二郎、壺井繁治の五名であった。
さて、この一九五〇年代前半期は、朝鮮戦争(五〇年六月~五三年七月)、講和条約安保条約調印(五一年九月八日)、米の第一回水爆実験(五四年三月一日)、第二回水爆実験(同三月二九日)等内外の大事件が続発し、今でも「五五年体制」と呼ばれるように、米ソの冷戦構造の影響が内外に尖鋭化された時代であった。この時期に現代詩人会が、思想の異なる会員を擁しながら、『死の灰詩集』をはじめ、講演、研究、出版に活発な活動を展開していたことは、刮目に値するものといえよう。
H氏賞の創設
一九五〇(昭和二五)年九月頃、雑踏する新橋駅前から銀座に向かう道で、村野四郎は旧知の平澤貞二郎に出会った。二人は戦後互いにその生死も消息も知らなかったので、抱き合わんばかりに、その再会を喜んだ。
村野と平澤とは詩人として古くから知り合っていた。ことに一九四二(昭和一七)年頃から平澤が、村野と同町内の大森区上池台に住むようになってからは、互いに訪問し合ったりして親交を深めていた。ところが、四五年五月二四日、二五日の空襲で、村野の自宅も勤める会社(理研電具株式会社)の本社も工場も焼失してしまった。その後村野は、家族を山形に疎開させ、自分は会社の寮でくらすようになっていたが、四九年に家族を呼びよせ、小石川林町に居住するようになっていた。平澤との交際も、被災以来絶えていたのである。
平澤貞二郎は一九〇四(明治三七)年、福井県三国町に生まれた。一五歳の時上京、大沢商会、報知新聞社等に勤務のかたわら、詩作にも励んでいた。一九二五(大正一四)年、萩原朔太郎、室生犀星らの詩誌「感情」の流れをくむ「帆船」(同人に多田不二、笹澤美明、竹村俊郎らがいた)に参加。二七(昭和二)年、詩誌「金蝙蝠」創刊。二八年、詩集『街の小民』(竜華社)出版。三〇年、プロレタリア詩誌の合同によるプロレタリア詩人会の委員長(書記長、遠地輝武)に就任、機関紙「プロレタリア詩」を一三号まで刊行した。一九三六(昭和一一)年、詩作を断念、実業一筋に専念するようになった。三七年、電気材料を扱う三国商会創立。四七(昭和二二)年、協栄産業株式会社(電機、化成品、半導体、電算機の販売、電子部品の製造)設立、代表取締役となった。両社とも一九六二(昭和三七)年、東証二部上場会社になった。
平澤が村野に逢った一九五〇(昭和二五)年は、平澤の事業が上昇一途にあった時期であった。
二人が互いの無事を喜び合い、話が互いの近況に移った時、村野は北川冬彦らと現代詩人会を創設し、きびしい時代環境のなかで苦労していることを話した。すると平澤は、「君のやっている現代詩人会に役立つなら金を出そう。しかし、あくまでも私の名は出さないでもらいたい」と言った。
村野は喜んで平澤の好意を受けることにした。このことを北川冬彦に話すと北川も喜んだ。そして、これを例会にはかった。もちろん、誰からも異論は出なかった。
こうして、当時としては大金の一万円を毎年継続的に寄付してもらい、HIRASAWAの頭文字Hを付した「現代詩人会賞H氏賞」を創設することに決まった。
この件は前述の通り、第一回総会でも事業計画として北川冬彦が説明し承認されたが、その趣旨をいっそう徹底させるために、翌五一(昭和二六)年二月、次のような葉書を全会員に発送した。
第一回H氏賞候補詩人推薦の件
此の度、元詩人にして現在実業家として活躍していられるH氏が、詩壇に貢献しようとする趣旨の下に、新人賞として現代詩人会へ毎年金一万円也寄贈される事になりました。ついては左記により推薦を願います。
一、一九五〇年度(昭和二十五年度)において最もすぐれた詩業をのこした新人一名。
(註)現在、現代詩人会会員ならざるもの。但し、受賞のあかつきには現代詩人会会員として迎えるに値する力量を有する新詩人なること。
一、受賞者は、諸君の推薦された新人の中より、H氏賞選考委員会の決議により決定します。
一、選考の経過は会報紙上に発表します。
一、推薦〆切期日二月二十五日
一九五一(昭和二六)年三月一〇日、事務所(北川冬彦宅)で、選考委員会開催。安藤一郎、北川冬彦、木下常太郎、草野心平、村野四郎の全委員のほかに、笹澤美明、および折から上京中の小野十三郎が、オブザーバーとして立会った。会員回答による候補一八詩集について、委員が各三詩集を再選出。さらにしぼっていった結果、殿内芳樹詩集『断層』が、授賞詩集に決定した。なお本年度は、とくにH氏が賞金一万円のほかに五〇〇〇円を追加寄付するとのことなので、次点の大島博光、和泉克雄、扇谷義男、安東次男、上野菊江の五名に、各一〇〇〇円を贈呈することとした。
この選考結果にもとづき、三月二五日午後一時より「第一回H氏賞発表並びに記念講演会」が、東京出版小売商組合講堂で催された。これが後の詩集賞授賞式をかねた「詩祭」(第五回より「夏の詩祭」、第七回より「五月の詩祭」、第二四回より「日本の詩祭」)の先駆となった。
H氏賞賞金は第一回(一九五一・昭和二六年)より第四回(五四年)まで一万円で、別に賞牌、置時計などの記念品が贈られた。第五回(五五年)より三万円。第一〇回(六〇年)より五万円、外国製万年筆の記念品。第二〇回(七〇年)より一〇万円、外国製万年筆の記念品。第二八回(七八年)より正賞を高級置時計、副賞一〇万円。第三五回(八五年)より賞金三〇万円、記念品として高級置時計。第三七回(八七年)より賞金五〇万円、記念品高級置時計となり、今日にいたっている。
H氏の匿名は賞創設後およそ一五年にわたって守られてきた。しかし、H氏賞受賞詩人のほとんどすべてが、現代詩を代表する詩人として、あるいは作家として、広く活動するようになると、社会的関心もつよくなった。詩の芥川賞とも呼ばれるようにもなった。そして、さまざまな臆測が飛ぶようになった。
この情況を見て村野四郎は、一九六五(昭和四〇年)一月六日付「日本経済新聞」の「交遊抄」に、次のように書いた。「最近になってH氏とは、佐藤春夫のことだなどという、まことしやかな臆説もながれだしてきたので、やむをえず、このへんで真相を発表する次第だ」。そして、H氏が平澤貞二郎であると書いた。
こうして、同年五月一三日、新宿・紀伊國屋ホールで開かれた第一五回H氏賞授賞記念「五月の詩祭」の席上、村野四郎は、H氏とは平澤貞二郎であることを明かして、同氏を紹介した。平澤貞二郎は、「日本経済新聞に出たので、匿名でいられなくなった。私が死んでも賞が残るように、信託基金を設定したい」と正式に挨拶し、満場の拍手を浴びた。
平澤貞二郎は一九九一(平成三)年八月二〇日、八七歳で死去した。しかし、氏は前言通り、一九八五(昭和六〇)年、「公益信託平澤貞二郎記念基金」を創設した。この基金創設の経緯と内容の詳細は後述する。
因みに、平澤貞二郎が創業し、永らく代表取締役社長、同会長をつとめてきた協栄産業株式会社は、東証二部上場会社で、二〇〇〇(平成一二)年六月現在、資本金二八億七〇〇〇万円、従業員一〇三五名の企業として盛業中である。
初期の国際交流
一九五〇(昭和二五)年、現代詩人会発足時の会則には、とくに「国際交流」「海外交流」という文言はなかった。これにあたるのは、第三条の六「海外詩人との交歓」であった。意味としては同じようなものだといえば、それまでだが、当時は「国際交流」を大きく掲げる時代環境ではなかった。敗戦国で、講和条約も結ばれていなかった。外貨の制限、渡航資格の厳重審査などもあった。詩の世界における国際交流の機会も現在に比べれば少なかった。そういうなかで最も熱心にコンタクトを求めてきたのが、「国際詩人隔年会議(ビエンナーレ)」であった。
(1)第一回国際詩人ビエンナーレは、一九五二(昭和二七)年一〇月一日から五日間、ベルギーのクノック・ル・ズートで開催。ベルギー文部省から外務省を通じて、日本の詩人たちに招請状が届いた。しかし、今回は旅券等の準備が間に合わず、代表派遣は見合せ、会の名でメッセージを送った。
(2)第二回国際詩人ビエンナーレは、五四年九月二日から五日間、ベルギーのクノック・ル・ズートで開催。今回は安藤一郎が日本代表として初めて参加(旅費は自弁)、会は蔵前工業会館で盛大な歓送会を開いて送った。
安藤一郎は、現代詩人会編集『死の灰詩集』から、堀口大学「死の水曜日」、阪本越郎「死の灰の雨」、近藤東「かの文明国」の三篇の英訳(福田陸太郎、市瀬竹士訳)を携行して、八月二七日、羽田空港を出発した。
安藤はビエンナーレ会場で、この三篇を朗読、『死の灰詩集』刊行の意図を説明し、世界最初の被爆者である日本人の立場を訴えて、大きな反響をえた。出席外国詩人には、ジャン・カスウ、ロベール・ガンゾなどがいた。また安藤はその後イギリスに渡り、ロンドンでスティーヴン・スペンダーに会い、詩人の立場から、原水爆問題について話し合った
(3)第四回国際詩人ビエンナーレは、一九五八(昭和三三)年九月開催。都合により今回は欠席。日本詩人クラブと現代詩人会の連名(代表、山宮允)によるメッセージを送った
一九五七(昭和三二)年九月二日から六日まで、アジアにおける最初の国際ペン大会が、東京で開催されることになった。テーマは「東西文学の相互影響」、会場は大手町・産経会館ホール。現代詩人会では、この国際ペン大会に来日する外国詩人との交歓会を企画し、九月三日午前一一時三〇分から、産経会館パーラー特別室で開催した。出席ゲストは次の一四名であった。
今大会の議長アンドレ・シャンソン夫妻、ロシューフーコー侯爵夫人、ベレトヴスキー夫人、クレール・ゴル夫人(フランス)、スティーヴン・スペンダー(イギリス)、カール・シャピロ(アメリカ)、カマラ・S・ドンゲルケリー女史(インド)、スタン・タクディル・アリスジャバナ博士(インドネシア)、イエス・ラスト(オランダ)、亡命詩人ポール・イグノタス・趙炳華(韓国)、ファスチノ・ナシメント(ブラジル)、ヴィラッスラーブ・ネズヴァール(チェコスロバキア)。
日本側は詩人約五〇名、報道関係、カメラマン、通訳を加えて約七〇名。会は、安藤一郎の司会、西脇順三郎幹事長の挨拶、いずれも英語で行なわれた。来賓の挨拶の後、声優の片岡みどりが、西脇順三郎、草野心平、金子光晴、高村光太郎、北原白秋の詩を朗読した。草野心平が「閉会の辞」を述べ、土産として桐箱入りの舞扇、安藤一郎英訳『日本の現代詩における新しい傾向』(国際文化振興会発行)他の冊子を贈呈した。
また、一九五九(昭和三四)年一一月一〇日、来日中のスウェーデンの詩人セッターランドを囲む会を、虎ノ門・キムラヤで開いた。安藤一郎、内山登美子、大岡信、清岡卓行、黒田三郎、伊達得夫、谷川俊太郎らが参加した。
二法案に反対声明
「破防法」反対声明 一九五二(昭和二七)年四月二八日、対日講和条約が発効した。しかし、安保条約、行政協定等によってしばられ、多数の基地を残したままの状況に強く反発する空気もあった。発効後三日目に生じた皇居前広場での血のメーデー事件もその現われの一つであった。政府はこれに対応するため「破壊活動防止法案」の制定をいそいだ。この法案は、政府の解釈次第で、国民の自由な民主運動、言論活動をも抑えこむ新しい「治安維持法」になる恐れもあった。
この観点から、同年六月一九日、第二回H氏賞授賞式を兼ねた「現代詩講演と討論の会」で、「現代詩人会有志」の名で「破防法」制定に対する反対声明を行なった。
「警職法」反対声明 一九五八(昭和三三)年一〇月八日、第二次岸内閣は「警察官職務執行法(警職法)」を上程した。同法によれば、身体検査、部屋の立入り検査(臨検)まで、警官個人の判断で実施できることになるので、学界、宗教団体、文化団体、労働団体、市民団体等から、強い反対の声があがった。現代詩人会は、「いかなる政治的立場に立つものではないが、言論活動を阻害する恐れがある」として、反対声明書を出した。同法案は、同年一一月二二日、審議未了の名目で廃案になった。
H氏賞事件 ――その経過と結果
一九五九(昭和三四)年度第九回H氏賞選考にあたって、会員八七名にアンケートによる詩集推薦を求めたところ、五五通の回答があって、二二冊の詩集が候補になった。これは一票以上の推薦のあったものすべてである。次にこれにもとづく第一回の選考会が四月二日、神田・トミーグリルで開かれた。選考委員は幹事一五名であったが、安西均が病気で欠席したので、一四名が出席した。会ではまず、この日の選考委員会招集の葉書の文面が、問題になった。
この葉書の文面は、事務担当の木原孝一副幹事長が作成し、会名のゴム印を捺して発送したものである。ところが、そこには特定の三詩集名が記されていた。すなわち、「アンケートによる有力候補」として、吉岡実、安水稔和、茨木のり子の順で、ペン字横書き三段に記載されていた。
これに対して村野四郎が木原孝一に向かい、「招集状に三名だけ特記したことは、選考委員に先入観念を与えることにもなり、選挙運動と受け取られる恐れがある。そういう誤解を受ける行為は、事務局としてつつしむべきではなかったか」と発言した。これに対して木原副幹事長は、「自分の意図としては、事務能率上の便宜をはかるつもりだったのだが、誤解される恐れがあるとすれば、事務局として手続きを誤まった」と釈明し、幹事全員これを諒承した。
次に、事務局が持参したアンケート回答紙を全員の前に公開し、土橋治重副幹事長が一枚一枚読み上げた。それを上林猷夫、三好豊一郎が集計し、全員で確認した。それによると高点順に、吉岡実、茨木のり子、安水稔和、北川多喜、以下二二名の詩集であった。そこで、得票一票のみの九詩集をけずり、一三冊を候補詩集として次回の選考にかけることとして、その日は散会した。
第二回選考委員会は、四月六日夜、同じくトミーグリルで開かれた。この席上で西脇順三郎幹事長が、幹事長宛の匿名の投書が三通あったと発言し、全文を朗読した。
第一回の投書は、四月一日朝(第一回選考委員会の前日の朝)西脇宅に届き、差出人は「一幹事」とのみ記されていた。第二回の投書は、四月二日(第一回選考委員会の当日)午前八時――一二時受付の速達封書で、選考会場のトミーグリルに届いた。宛名は、「西脇順三郎様、他幹事御一同様」、差出し人名は「一幹事」であった。
「第一の投書」の全文は、次の通りである。
前略 H氏賞選考委員会通知の中で、アンケートによる有力候補として三人だけが挙げられてありますが、このアンケートからこの結果を出すにつき西脇幹事長は、その現場におられたのでしょうか。
もし副幹事長任せでしたら選考会の席上に、アンケートのハガキを全部持参させ、公開の場であらためて有力候補を決めるべきであると思います。
幹事長最後のお仕事として公正な責任を以て選考を遂行させる事をお願いいたします。もしもこれを実行なさらない場合は新聞にて真相を発表いたすことを附記します。
「第二の投書」は、前述の通り、第一回選考委員会の当日に、事前に会場に届いたもので、その文面の趣旨は、「第一の投書」とほぼ同様のものであった。
ところが、「第三の投書」は、第二回選考委員会(四月六日)の二日前に、西脇幹事長宅に届いたものであった。その文面の趣旨は、第一回選考委員会で、自分の投書が公開されなかったことを非難するものだった。すなわち、「これを発表しないことは、幹事長の越権であり怠慢であり握り潰しの醜怪行為であります」と述べていた。そして、「次回の六日には、幹事長が会場にあの封書を必ず持参し開会前に公表して戴かねばなりません」とつづけ、ここでも「新聞などに書く」かもしれません、と結んでいた。
既述のように、問題の招集葉書の文面については、第一回の選考委員会で村野四郎の指摘があり、文責者の木原孝一副幹事長が釈明(陳謝ととってもいい)している。また、アンケートの回答状全部を公開の席で再集計し、一三冊の候補詩集を決定したのだから、事は決着していると考えても不思議はない。それ故に、西脇幹事長は、事をむし返すような、投書の公開を見合せたのであろう。しかし、「第三の投書」では、投書の未公開そのものを問題とし、「新聞に書く」とまで言っているのだから、西脇幹事長としても投書のすべてを公開せざるを得なくなったのだと考えられる。
そこで、再び木原副幹事長が、「アンケートの集計に公正を欠いた疑いがある」、あるいは「手続き上に間違いがあった」ものとして、最初からやり直すべきかどうかを、全員に諮った。これに対して、「アンケートの集計は公正に行なわれた。このまま選考を続行すべきだ」と決議されたので、選考続行に決まった。
こうして選考が進められ、最終の無記名単記投票の結果、吉岡実詩集『僧侶』七票、北川多喜詩集『愛』五票、『吉本隆明詩集』一票で、吉岡実の第九回H氏賞受賞が決定した。
しかし、H氏賞問題は、これで完全決着したわけではなかった。思わぬところから問題が再燃し、詩人間の暗闘という相貌をも呈するにいたった。
まず、この年から雑誌「詩学」に、H氏賞についてのすべてを、発表することになっていた。それはH氏賞を、より広く社会的に知らしめる目的からだった。そして、「詩学」五月号に、「選考経過」と各選考委員の「選評」が掲載された。この「選評」を執筆したのは選考委員十四名中八名であった。すなわち、安藤一郎、緒方昇、上林猷夫、北川冬彦、高橋新吉、土橋治重、村野四郎、長島三芳である。はしなくも、この「選評」によって、誰が誰を推したかが明白になった。そこから、「謎の投書主」は、問題の葉書に記された三名(吉岡実、安水稔和、茨木のり子)以外の者を推した選考委員の中にいる。最終投票で北川多喜『愛』に投票した者の中にいる、という臆測が生まれた。ここから選考委員(幹事)相互の間に疑心暗鬼が生じ、詩壇ジャーナリズムも、確たる根拠もなしに、おもしろおかしく推測記事を流すようになった。
一九五九(昭和三四)年四月一九日、定時総会で幹事改選が行なわれ、次の人々が新役員に選出された。幹事長北川冬彦、副幹事長土橋治重、同三好豊一郎、幹事安藤一郎、安西均、上林猷夫、木原孝一、笹澤美明、佐川英三、高橋新吉、壼井繁治、長島三芳、西脇順三郎、村野四郎、山本太郎(伊藤信吉、草野心平は辞退)。
新幹事会では、「投書の件はなかったものとして、水に流し、会の発展のために建設的な方向に進もう」ということで、意見の一致を見た。
ところが、吉岡実へのH氏賞授賞式をかねた「五月の詩祭」当日の五月二七日付「朝日新聞」朝刊に、またH氏賞事件に関する記事が載った。それは学芸欄のコラム「素描」に書かれたものだが、内部の者でなくては知りえない事実が書かれていた。またそこには事件発端の責任者たる木原孝一編集の「詩学」の匿名時評が、投書者を非難しているのは「木原の居直りだ」と反発する動きも出ていることなども、伝えていた。
調べてみると、この記事は、朝日新聞社学芸部宛に来た「一幹事より」という匿名の投書にもとづいて書かれたものであることが判明した。また、産経新聞にも「幹事T」よりとした匿名投書が来たことも明らかになった。
日本の代表的マスコミによって、会の内情が報道されたため、波紋が広がった。退会者も出るし、会員に動揺が生じた。そこで村野四郎幹事から、「こういう事態を生んだこと、事態の混乱を収拾できない責任をとって、幹事は総辞職すべきだ」という提案があった。これに対して、「この件の責任は前幹事会にあり、マスコミ情報も歪められたものだ。むしろ、今後の会の活動によって、前向きに解決すべきだ」という反対意見もあった。しかし、大勢は総辞任に傾いた。
一九五九(昭和三四)年七月二七日、神田・トミーグリルで、臨時総会開催。議長に近藤東、副議長に三好豊一郎を推して、議事に入った。「総辞任不要」の声もあったが、「まず問題の三投書の公開が先決」の動議が出て、三好副議長が朗読した。
幹事総辞任については、「会則第一四条総会」の規定には「役員の選挙」はあるが、「役員辞任の承認」の規定はないので、報告事項とし、事実上承認された。
つづいて新幹事の選出を行なったが、今回の被選挙者には、一九五八―五九(昭和三三―三四)年の幹事経験者は除外することとし、次の一五名が選ばれた。
幹事長近藤東、副幹事長木下常太郎、黒田三郎、幹事大江満雄、扇谷義男、大滝清雄、蔵原伸二郎、桜井勝美、神保光太郎、関根弘、鳥見迅彦、殿内芳樹、福田陸太郎、山本和夫、山中散生(岡本潤、深尾須磨子、藤原定、北園克衛、田中冬二辞退)。
木下副幹事長は、「H氏賞の選考は、幹事会以外の第三者選考委員会をつくって、運営すべきだ」と提案。その趣旨にそって新会則の具体的な成案を急ぐこととなった。
いわゆるH氏賞事件なるものは、幹事会=選考委員会の内部における匿名投書が発端であった。この投書主はついに不明であった。問題は、この人物が名乗る通り、「一幹事」であるなら、なぜその主張を幹事会=選考委員会の席上で述べなかったのであろうか。現に村野四郎は同趣旨の発言をし、木原孝一はじめ出席者全員が、それに賛同していた。事はこれで決着したはずであった。にもかかわらず、投書主はこれを会の外部――マスコミにまで持ち出し、会の名誉を傷つけたのは理解に苦しむ。事件は風化しつつあるが、これに関連して、あらぬ嫌疑をうけ、傷ついた詩人もいた。しかし、最も大きく傷ついたのは、詩人の品性を自ら汚したその投書主自身であったであろう。