黒岩 隆氏講演(総会の議事前講演2019.8.24)
「恋をすれば──村上昭夫の詩篇より。」
黒岩 隆氏講演
名詩集「動物哀歌」1冊を残し急逝した村上昭夫に、恋の歌がありました。昭夫はふさ子氏と結婚した翌年、結核で亡くなっています。
『恋をすると』 恋をするとまっすぐに歩けなくなる/そう言いながら倒れていった詩人がある⊘恋をするとほんとうの道が分らなくなる/そう言いながら/彼は一層はげしい恋を/宇宙のなかに燃やし続けた/どうかマジエル様/あらゆるいきものの幸いを捜すそのためならば/私のからだなど/なんべんひき裂かれてもかまいませぬ⊘恋をすると見えるものが見えなくなる/けれどもそのことが/ほんとうの恋ではないのだとしたら/私は私のいのちを/それこそ何遍賭けてもいい⊘恋をするとすべての願いがだめになる/そう恐れながら/私はあのまっくらな虚空のなかを/何処までも行かなければいけないのだ
私はまず、最初の一行に魅かれました。恋の本質をついているからです。激しく恋をすると、誰でも、まっとうではなくなるのです。得体の知れない熱情あるいは、思い込みに左右された、非日常に迷いこむのです。〝倒れていった詩人〟は昭夫本人でしょう。そこに、この詩のリアリティがあります。そして、第2連では、恋はいっそう激しくなり、宇宙にまで拡がります。第3連では、宮沢賢治の短編「烏の北斗七星」の中の烏の大尉の悲痛な祈り〝どうかマジエルさま〟がそのまま挿入されています。昭夫の恋は、あらゆるいきものの幸いを捜すためには!と普遍の愛に昇華されてゆくのです。第4連が秀逸で、〝見えるものが見えなくなる〟ことこそ、ほんとうの恋である、ほんとうの恋のためには、何遍でも自分の命を賭けてもいい と言い切るのです。
古来、男とは、苦しい恋の成就のためには、何でも賭けると言い出すいきものではありました。たとえば、黒田三郎の、詩集「ひとりの女に」の中に、『賭け』という詩があります=美しくそう明で貞淑な奥さんをもらったとて/飲んだくれの僕がどうなるものか=ああ そのとき この世がしんとしずかになったのだ=僕は見たのであるひとりの少女を=一世一代の勝負をするために 僕はそこで何を賭ければよかったのか=僕は/僕の破滅を賭けた/僕の破滅を/この世がしんとしずまりかえっているなかで/僕は初心な賭博者のように/閉じていた眼をひらいたのである。そして、最終連、すべての願いを失う恐れに震えながら、虚空の闇を突き進む、果てしない恋の孤独を唄っています。ふさ子の大手術の際、東北の三月初めだというのに、なんと水垢離をとって、その全快を連夜祈り続けた昭夫が、ここにいます。最後まで、病、結核と戦い、まさに我が身を賭けて、女人を愛した、痛切で、清らかな詩人がここにいます。
それにしても【恋をすると】昭夫も黒田三郎も、命や破滅を賭けると歌いましたが、そんな時、相手の女性はどんな答えを返したのでしょうか??最後に、未だばりばりの現役女性詩人、新藤凉子さんの詩を紹介します。詩集「ひかりの薔薇」から『遅い』〝あの帽子は/わたしがころんだすきに/波にのまれてしまったのです⊘ひろってください=あなたが一生懸命/手を伸ばしたのはわかっています/今日は 海の水がおこっている日/あなたをさえ 波がのみこもうとしている/けど おそれずに/あの帽子をひろってください⊘わたしが願ったのは/帽子をとりもどすこと/ではなかったけれど〟男は悲しいですね。女は永遠にミステリアスですね。それでも、会場の詩人の皆様、恋をしましょう。恋をして、喜んで、苦しんで、最後に、草の葉についた、煌めく朝露のような一篇の詩を手に入れてください。(黒岩 隆)