2024・6・2詩祭 森まゆみ氏講演レポート 人の声と震災と―『聞き書き関東大震災』から
2024・6・2詩祭 森まゆみ氏講演レポート人の声と震災と―『聞き書き関東大震災』から
・関東大震災のもたらしたもの
関東大震災は近代最大の災厄である。朝鮮人の虐殺も重大な問題だが、それだけではない。政治的、経済的にも、その後の日本が戦争へと突き進む道を開く契機になったといえる。体験者からの聞き書きと、文献資料をもとに関東大震災の全体像を明らかにしたい。
・1923年9月1日
午前11時58分地震発生。震源地を相模湾海底とする。M7・9。昼食時だったため、竈や七輪の火から火災に。ガスは未だ普及せず、電灯、水道も直後に使えなくなる。市内143か所から発火。皇居下側の下町、旧神田区、日本橋区、浅草区などは90%以上焼失、麻布区、牛込区、小石川区、四谷区などはほぼ無傷で命運を分けた。
木造が多く、屋根瓦が往来に流れるように落ち、子供を屋内に避難させた。
発災直後、蔵前高等工業(現・東京工業大学)より発火。16時頃、本所被服廠跡が火の海になり、4万人中、3万8千人が焼死。この震災で被災死の原因のほとんどは焼死。(後の阪神神戸は圧死、3・11は溺死)
13時10分「非常警備に関する命令」が出る。(臨時衛戌司令官・石光真清)これは軍独自の判断で、次の日の戒厳令へとつながる。当時、内閣は加藤首相の死去で崩壊、組閣中。事に当たる責任者は不在。役所も土曜で半ドン、翌日も日曜で行政は動かない。
15時頃、最初の流言。「社会主義者、及び、朝鮮人の放火多し。」「林町でも井戸に毒を入れたという朝鮮人騒ぎがあって…電気もつかず…物騒で怖かったですよ。…皆で共同で、表で火を焚き、ご飯を作りました。頭のいい人は止まった都電の中に避難しましたが、そのうち上野の方から大八車に荷物をのっけてくるので大騒ぎ混雑しました」―『谷根千』24号
蝋燭は払底し、全くの闇夜。20時頃、列車運行が途絶える。ラジオも未だなく焼け残った都(現・東京)新聞が出たのは9日。情報の空白も流言の広まった一因と考えられる。
発災直後、避難民の最多は上野公園。83・5haに50万人。明治神宮にも3万人が避難。竹久夢二は、「上野の山を開発で潰そうとしたが、こんなに人を救った。来たるべき東京は緑の東京でなければならない」と書いた。
・9月2日
内務省は震災救護事務局を設立、陸軍のテントを借り明治神宮などに設営。被害の少なかった人々は炊き出しをした。コミュニティが急速にできてくる。
14時、東京市と府下5群に戒厳令。朝鮮総督府で朝鮮人弾圧の直接責任者、水野内相と赤池警視総監が恐怖心から進言した結果という。(田原洋『関東大震災と中国人』)朝鮮人に関するデマは渋谷や世田谷の警察署長が在郷軍人へ広めたとみられ、自警団も暴力化する。
「自警団? ありました…八巻まいて刀を差していました…一々検問して三度訊ねても答えなければ殺してもいいことになっていた」自分の町を守るという意識自体は悪いものではなく、高村光太郎、芥川龍之介、大杉栄(9月16日、伊藤野枝、甥の橘宗一とともに殺害される。甘粕事件)さえ夜番には立った。しかし暴徒や自警団より先に、軍は、かなりの朝鮮人を殺していた。(西崎雅夫『関東大震災と朝鮮人』)20時、山本権兵衛内閣成立。
・9月3日
朝、江東区大島で軍隊、警察、自警団が中国人数百名を虐殺。警視庁が、「朝鮮人の大多数は温良なるゆえ迫害せぬよう」とビラ3万枚を撒くも焼け石に水、暴行虐殺が続く。虐殺された朝鮮人の数は、韓国側調査団によると6000名。慰霊碑には6600名と。
・関東大震災から見えるもの
混乱の中、大島沈没など荒唐無稽なデマも多数流れる。自警団から保護する名目で社会主義者は逮捕され、配給のための町内組は戦中の隣組みに発展。それでも発災時は明治維新から60年程で、江戸庶民の心構えと組織が生きていた。(鈴木淳『関東大震災』)
東大生や寛永寺の僧たち、羽仁もとこのボランティア、帝国ホテルの伝統など、首都直下型地震が30年以内に70%の確率と言われる今、関東大震災を振り返ると学ぶべきものがある。(文責 藤井優子)
※当時の東京市の人口は248万人。死者全体の数は、10万5385人。全焼全潰流出家屋29万3387戸。被害総額は55億円、100億円以上とも。当時の国家予算の4~7倍。
※帝国ホテルは落成祝賀の午餐会を取り止め、犬丸支配人は客を安全な中庭に集めた後に電源を切り、炊き出しの調理にかかった。この伝統は継承して3・11でもロビーに被災者を迎えた。