詩投稿欄

詩投稿作品 第25期(2022年4月―6月)入選作・佳作・選評発表!!

日本現代詩人会 詩投稿作品 第25期(2022年4月―6月)

厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。

【選考結果】
■山田隆昭選
【入選】
詩餅「割腹」
有門萌子「のらめ」
サイトウマサオ「きのみぐら」
南田偵一「やめてもうた」
水城鉄茶「けていく」

【佳作】
貝類「聖域」
伊渓路加「灸」
宇井香夏「犬の太陽」
春原ひつじ「アパートを借りた日」
八ツ橋「自分探し」

【選外佳作】
鈴木歯車「ごご」
八尋由紀「竹林」
露野うた「食」
山川さち子「これから泣こうとしている」
佐々木海斗「眠り」
吉岡幸一「穴に花を」
指田悠志「日」
柳坪幸佳「海に近かった場所」

■塚本敏雄選
【入選】
河上類「非春の季節」
竹井紫乙「建仁寺の雨」
貝類「聖域」
南久子「熊の秘密」
守屋秋冬「赤い自転車」

【佳作】
杉浦陽子「境界線」
松波=和泉翔「タクシードライバー」
小田凉子「ただよう」
南田偵一「おぼえかた」
加澄ひろし「なみだ坂」

■草間小鳥子選
【入選】
柳坪幸佳「海に近かった場所」
南久子「熊の秘密」
河上類「遠景」
帛門臣昂「十代」

【佳作】
岩佐 聡「母が恋愛していた頃」
竹井紫乙「建仁寺の雨」
鳥井 雪「オフィーリアin湯舟」
南田偵一「おぼえかた」
守屋秋冬「赤い自転車」
安藤行宥「無数の差異の朝」

<投稿数444 投稿者242>


 

詩餅「割腹」


俺をナイフで切り開く
手に手をとって 何かを取り出す
「どうだ? どんな顔をしている?」
彼らは何も答えない

それから 俺も黙ってしまう

俺がナイフを片手に持って
散歩を始めたあの日から
幾つの日を刺してきただろうか
昨日の死体すら すぐに朽ち果てる

それから俺は 腹の中に居たものと対峙する

「やあ 初めまして」
「初めまして」
「どんな気分だ?」
「どうも思わないよ」

それから 俺の腹の中に居たものの腹を裂く

彼らは何も言わずに
俺と一緒に中身を取り出す
俺と同じ顔の彼らの腹は
みんなナイフで割かれている

それから俺は 昨日の死体と一緒に朽ちてゆく

有門萌子「のらめ」


平日の昼間
妊婦健診に行った足でそのまま
役所へ三人目の子の
母子手帳をもらいにいった
年嵩の担当女性が手続きについて
丁寧に説明してくれる
提出書類を記入していて
職業を書く欄があった
見本にはまさしく《会社員》とある
すんなり会社員と書けばいいのに
なぜか書きたくなくて
どうしても
主婦と書きたくなって
そう書いた
ひととおりの説明を終えると
担当の女性は朗らかに
今日上のお子さんたちはパパが?
と尋ねるので、園だと答えると
大げさに驚いて
あらここには主婦とあったのでと
さっきの書類に目を走らせている
どうしようもなく
恥ずかしいような気持ちで
苦しまぎれに書き直しを申し出ると
女性は笑って
こちらでちょちょっと直しておきます
と言ったのでお願いした
なにをどう
ちょちょっと直してくれるのだろう
いっそもう白状してしまおう
口をつぐんだまま
会社員でもなければ
主婦でもないのだと
なにかしらの社会や組織に
属しているようには思われない
人でないものがここにいると
ビニール張りの事務机が
蛍光灯を照り返すので
顔を背けたまま
しかし慇懃にその場を去った
横断歩道の前に立つ
社会にも組織にも
属しているようには思われない
ただの孕みたての野良女
のらめっていい響きじゃないか
空腹を告げるもう少し下の位置から
どくどくどくと
さっき確認できたばかりの
心音が響いてくる
こういうとき江戸っ子なら
てやんでい、と言ってみるのだろうか
ちょちょっとしたところで
野良女に太刀打ちなんてできない
リズムの違う
二つの心臓が人体のなかで鳴る
ただの孕みたての野良女
今日はずいぶん暑い

サイトウマサオ「きのみぐら」


しりとりで

がまわってくると
きのみぐら
と いつもこたえた

きのみぐらって なに
たずねても
はにかんで
くちびるをなめるだけ

そうか そうか
きのみぐら な
じゃあ ラッパ

さんしゃめんだんのかえりみち
しんごうまちをしながら
きのみぐら とつぶやくと
いぶかしそうに
まゆをよせた

南田偵一「やめてもうた」


ばあちゃんが死んで
じいちゃんはじいちゃんじゃなくなった

毎週土曜
じいちゃんとばあちゃんの
家に行くんは
僕とにいちゃんは麻雀やるためで
ばあちゃん死んだら行けんようなった
母ちゃんと叔母ちゃんは
ばあちゃんに会うために行っとたんやな
じいちゃんひとりなったら
行かんようなった

ばあちゃんの出棺んとき
じいちゃんはわんわん
泣きおって
じいちゃんであったことを
やめてもうた
もう麻雀は二度とできんのや
って予感があった
麻雀覚えたら頭ようなるからって
小学四年んとき教わって
頭がないとチョンボなるゆうのが
ようわからんくて
じいちゃんは怒っとった

ばあちゃん死んで
ひと月も経たんうちに
僕が修学旅行中
じいちゃんはひとり
炎天下の和室でぶっ倒れておった
半日ほったらかしで
半身不随なって
母ちゃんと叔母ちゃんは
泣いておった

しっかりせえよ
じいちゃんやめてもうたら
あんた
ただの老害やで
叔母ちゃんのどぎつさに
僕は半分味方して
じいちゃんに心ん中で言うたる
頭ないと麻雀はあがれんのや
ボケてまったら
じいちゃんじゃなくなる
痛いのわかる
帰りたいんわかる
もう言わんでもわかってほしいねん
せやけど
もう言わんでもわからんようなってもうたのも
わかるんねん
じいちゃんでおること
やめとうなかったのもわかるんねん
時が戻らんことも
僕が孫をやめなあかんことも
きっと
その勇気が僕の方にないのや

水城鉄茶「けていく」


カーテンの内側で
骨が欠けていく
母は裂けていく

止めることができない

隙間から

睨まれたら睨み返してきた
わたしの歯はもうだめです
青い戦闘機をありがたがってしまうかもしれません
裏返って泣く

春は春で蛙が裏返るでしょう
インサイドアウト
ぶちまけて
大笑い
しながら耳を塞いで
どの季節もぞっとする

浸食
誰のせいでもないと
本気で言えるか
カーテンの外へ
骨が駆けていった

河上類「非春の季節」


春にあらざるものすべて、が春とはことなったやり方で世界を包み込んでいるとき、それらに春へとかえる道筋を丁寧に指し示すことが、前世からつづく私の、使命の一つであったように思われてならない。幾年にわたる試行の結果、私あるいは私の友人らが示した無数の順路が、市中を涸れ川のごとく横たわり、それらはひとりでに蛇行し、分岐し、あるいは交叉した。やがて、一つの結節点が生み出される。我々にはそこから、次の春が芽吹くのではないかという確信めいた予感があった。あるいはそのような予感から、次の春が芽吹くのではないかという予感があった。しかしそれは、まったくの誤りであった。

街から春が失われて十数年が過ぎ、我々は亜寒帯の針葉樹林への恋慕をつよくした。旅路にある友人がよこした便りによれば、春とは春にあらざるものすべてが共謀して生み出す一種の幻想であり、我々がその実体を掴むことはできないのだそうだ。そのような悲観的観測に耳を貸すことのなかった街の人びとは、城壁を高く積み上げて、街を世界から囲い込もうとした。城壁には雪がうずたかく積もり、彼らの計画が失敗に終わったことを、いま私は手紙に書いている。

風の強い大潮の日に、私たちは湖底の泥をかき分けて、春の痕跡を探し歩いた。釣り糸を垂らすような手つきで、慎重に泥を混ぜ合わせていくと、驚いた湖水の微生物が、ときおり仄かに発光し、辺りは淡緑色のもやに包まれた。私たちは膝の上まで濡らして、水面に浮かぶ蓮の葉の裏に、わずかばかりの春の結晶を見出した。それは、太陽光の下では直接見ることはできないが、正確な六角形をしていることが、誰にでも、はっきりと、分かる。

河川が街の境界に多いのは、河川がしばしば季節を分かつからだと言われている。河原に集められた翡翠には、季節を巻き戻す能力はないが、私たちにはそれができるかもしれない。試験管のなかで培養されゆく春の結晶は、私たちが手を合わせるたびに、やわらかい肩をつくりだしていく。成長した結晶を核として、あたらしい太陽を鋳造しようとする計画がにわかに持ち上がり、街の人びとを巻き込んで、盛んに議論されている。亜寒帯から帰ってきた友人たちは、いまその計画を聞かされているところだ。

竹井紫乙「建仁寺の雨」


路地に手紙が落ちていた。

拾って読んでみると、とても素敵な手紙だったので自分のものにしてしまった。売り物にしてみたらちょっといい値段で売れた。

「ありがとうございます。あなたの手紙、売り物にしました」という手紙を書いて出したら返事が来た。「建仁寺で待つ」とのことだ。

路地から露地へ大きい橋から小さい橋へ小雨から大雨へ勅使門から建仁寺へ。

入口で丁寧に雨粒を拭ってもらい茶室へ案内された。お菓子が出ても食べてはいけない茶会である。こころが落ち着かない茶会である。茶会のようで茶会ではない茶会である。

わたしが盗んだ手紙の書き手が誰だかさっぱりわからないまま方丈へ出た。
雨。凄まじい土砂降りで雨の音以外何も聞こえなくなり雨に溺れてしまった。雨には睡眠薬が入っているからどんどん体が畳に吸い込まれてゆく。目の焦点が合わなくなり、思考が細断され始め、手足がもぎ取られ、達磨にされてしまった。寺院には数えきれないほど部屋があるから、達磨を転がしておく場所に不足はないだろう。転がされた部屋の天井には龍がいて、わたしをじいっと見つめている。

「終わらない雨があるって知ったはる?」と龍が喋った。
「知らんがな。知りたくもないわ。」とは言えない。
わたしにできることは、雨の中で黙って座っているか寝転がっていることだけだ。

雨の音と湿度、つめたさだけが現実である。
建仁寺に降る雨は八百二十年ものの雨だ。

わたしが拾った手紙は龍が書いたものなのだろうか。いいやそんな感じの手紙ではなかった。誰かのことを心配して思いやっている、そんな内容の手紙だった。優しさや思いやりは売り物になるのだ。わたしはそういったものを売買して生活している。

建仁寺に降る雨は八百二十年ものの雨だ。
この雨も売り物になるのだろうか。
美しい庭。美しい建物。美しい雨。そこに佇めば八百二十年前の雨の音が聞こえる。雨に囚われてわたしが消え失せる。

目覚めるとそこは路地裏で、わたしは手紙になっていた。

貝類「聖域」


サッカー中継のはじまりとともに
わたしの娘は手を洗いだした
試合は終わり
日本は負けた
娘はまだ 手を洗っている
存在そのものを
洗浄しようとしている
洗いすぎて爛れた手は
ひとしれず燃え尽きる
徒花のようだ
わたしは番人である
清潔の奴隷である娘の
番人である

わたしは
猫を抱いている
猫の腹に顔をうずめる
骨も肉もない沼へ
ずぶずぶと沈んでいくような
猫のからだには果てがない

痩せ衰えた母猫が
ようやく視界のひらけた子猫の
首元の皮膚をくわえ
はこんでくる
わたしの庭へ
カワイソウナコタチ
の棲む庭へ
わたしはその庭の番人であり奴隷だ

絶えず
汚れを摘発しながら
死にたい と娘が泣くので
あんまり泣くので
死んでいいよ と言ったのだ
お母さん 庭に出るから その間に死んでいいよ
でも戻ってきたら 必ず後を追うからね
そうしてわたしは 自らの腰から
革のベルトを引き抜き
生白い 娘の首へ垂らした
ちょうど 誕生日に折り紙の輪飾りをかけてやるように
誰がそれを祝福と呼ぶのか
しかし祈るように
娘は
病のなかへ蹲り
手を洗っていた
だいじょうぶだいじょうぶ
わたしの娘はだいじょうぶ
猫のからだへくりかえしだいじょうぶを吐きだす
重みに耐えきれず 落としてしまった
破裂したあとに残るのは
遠い夏に蟻のむらがっていた西瓜の残骸だ
わたしは踵を返す
口からやわらかい毛をいっぽん
吐きだして

南久子「熊の秘密」


樹洞でかくれんぼをするように
山の男はわたしたちを熊の穴に導き入れた
熊の好物の木の実が供えてある
貴重な夜光貝の螺鈿の引き出しから
蓄えておいた熊の肉を取り出し
みんなで鍋を作って食べた
少し太ってしまったようだ
脂肪を纏った熊のように

お父さんにこの話をすると
彼らは熊のようだと脅す
平気で嘘をつくはずはないが腹がた立った
その日は
熊の体臭を嗅ぎ分けて眠った

お腹をこわすと
とっても苦い熊の胆という生薬を飲ませて
少しだけ勇気をくれたお父さんは
ココナッツの不味さはいくらでも話すのに
あの戦いのことは何も触れない
みんないつの間にか
聞くことさえ忘れてしまったようだ
熊の穴の壁に打たれた杭の跡のように

血のつながりのない人たちと
少しずつ話ができるようになって
熊の食い散らしたクルミの殻を
見つけると熊になれる
樹洞にもどる道順を忘れた熊の穴に
立ちのぼる木立のそばで
熊を装わなくても熊になれる
ただ本当のことを語れるか
怖くなる
そして それをいつにしようかと

守屋秋冬「赤い自転車」


赤い自転車が
家の前に
置かれている
名前を見ると
わたしの旧姓が
ひらがなで書いてあり
癖のある父の筆跡だと思ったら
ふいに風が吹いて
赤い自転車は消えた

ママ、早くしないと遅れるよ
息子の声がするけど
姿が見えない

喪服で玄関を出たはずなのに
わたしが
赤い自転車に乗って
ゆらゆらするのを
父が支えてくれる
姿は見えないけど
間違いなく存在する
ふいに風が吹いて
息子の姿が現われる

父の通夜に
わたしは向かうのだ

昨日、病院で看取ったはずなのに
父はずるい

死んだら
自由に
移動できるのか
夢だけでなく
現にも
時間を超えて
姿を匂わせる

買ったばかりの
赤い自転車に
父とわたしの思い出が
詰まっている

ゆらゆらと揺れるわたし
手を離すぞ
どっしりとした父の声

あの瞬間から
わたしは
一人で生きているつもりになったが
ずっと
見守られていたのだ

ママ、どうしたの?
息子に手を握られて
自分が泣いていることに
気づいた

柳坪幸佳「海に近かった場所」


土曜日のうすい路地には
はがれた季節が
ひとつかみほど散らばっている
海に近かった場所だから
家々は、ずいぶん長く船の廃材でつくられたと言う
軒先をくぐるように歩いていけば
少しばかりたわんだ日差しと
木目にかさねて
魚のまなこが切りひらかれる
わたしをゆっくり見下ろしてゆく

かつて、海はこの目の高さのところまであり
かつてはわたしも誘われていた
その頃であれば
ゆらゆらと、潮に乗り
たどることができたかと思う
この場所の風は
いつも沖をなだらかにふくみ
たいせつなものをさがせるのだから
それは例えば、ずいぶんと長く生き延びた井戸
それからついに消えてしまった駄菓子屋と
打ち捨てられた、庇の暗がり

なにもかもが、とうの昔に埋め立てられて
板切れたちは少しずつ
生まれたときの
木肌のにおいにもどりかけている
海のむこうを歩きたいのに
鳥たちは今日も
行くべき場所がわからなかった
ふるいさざめき
耳のなかで
貝殻と骨が擦れ合っている

河上類「遠景」


地球のどこかでは昼であること。地球のどこかでは無風であること。地球のどこかでは雨が降っていること。そのような「どこか」の事実の集積が、私たちの視界にたしかな背景を与え、目の前の静物に熱のある質量を投下していく。いま山の稜線に沿って析出してきた胡粉色の霧が、遠景のなかでゆるやかな領域を占め、私たちに重心の位置を開示していく。それに応じるようにして、私たちは、足を肩幅に広げ、そっと重心の位置を開示していく。そうだ、私たちは、遠景と無関係に存在することができないのだ。

例えば、焼却炉に押し込められた一羽の折り鶴が、ほそい悲鳴を上げ、私たちの鼓膜がそれを捉えるとき、私たちの心は、この七畳半の部屋のなかに限定されていく。鳥籠のなかに入れられていたのは、色鮮やかな鳴禽ではなく、蹄鉄のような折り鶴だったか。

ふるさと以外に愛することのできる景色を持つ者にしか分からない、ふるさとの座標というものがあり、それは一般に、ある遠景と別の遠景との関係として理解される。遠景のなかへ青い回送列車が帰ってゆくとき、私たちは無意識に、次の遠景を視界の端にさがしている。私たちを遠景から切り離そうと試みる遮断機の音が響き、それに伴って、私たちの重心の位置がわずかに引き取られてゆくとき、私たちはたぶん、根源的な恐怖を感じることになるだろう。実体のない静物が、その空洞のなかから私たちを見つめるとき、その静物こそが私なのだと気づくのに、そう長い時間は必要ない。引き続いて発生する短い悲鳴ののち、私たちはやがて、あの遠景に抱かれてゆくのだろう。

いま目の前に一羽の折り鶴があり、それと遠景との関係を認めない限り、重心の位置が開示されることはなく、また我々は、この場を離れることができない。遮断機が下り、短い悲鳴がそれに続くとき、私たちはふるえる指先で、重心の位置をなぞるのだ。

帛門臣昂「十代」


あの葉桜の
青い産道をくぐり
僕の十代はうまれた

十代は
丸十年ではない
間違いだらけの
最後の三年のみを指す
あたかも夏と言われたら
暑さの階調を忘れて
晩夏八月
ただ一ヶ月を思い浮かべるように

僕の十代は初夏だった

さみだれに洗われた日
一緒に濡れてくれた人が
初夏の痛みを僕に与えた
十代は痛かった
皮下を自我が蠢き
世界と戦うつもりで突き出ようとした
いつも明日を思えば
雨の日も雨じゃない日も
痛みが濡れていた

ついに初夏が終わる
その次は一足飛びに晩夏だ

追い込まれてゆく深い森の
入口に建てられた十代の墓は
さみどりのまま朽ちる



◆山田隆昭選評
【入選】
「割腹」詩餅
腹を割く者と割かれる者が重層します。イメージ的には、自分の腹を切り開いて体内にある仏頭を見せている、萬福寺の羅漢像を思い起こしますが、この詩では自分の体内から出てくる者の正体を明かしません。出てきた者の腹からまた出てくる者。それが繰り返されることで、〝俺〟の死と再生を暗示しています。〝俺〟という存在の、虚と実が重なり、不思議な世界を出現させています。

「のらめ」有門萌子
三人目の子どものための、役所での手続きともなれば、緊張感も薄れるでしょう。事務員とのやり取りでの、いかにもありそうな、すぐにバレてしまうようなちょっとした嘘もほほえましい。本当の自分ではない、別ものに見せたい心の内をよく表現しています。事務員もお役所的な慇懃さはなく、来庁者の心情を呑みこんでいます。いのちを宿した〝野良女〟。したたかに生きている女性の、ちょと斜に構えた姿勢が見えてきます。

「きのみぐら」サイトウマサオ
子どもが口にする〝きのみぐら〟という不思議な言葉。しりとり遊びで発せられるその言葉の意味は解りません。訊いても答えません。意味は解らないが、なんとなく心地よい響きがあります。だからついつい口ずさんでしまうのでしょう。しかしその言葉は、子どものものですから、他者である大人が発しても違和感があります。言葉の持つ原初的なものが、〝きみ〟とのやり取りをとおして浮き上がってきます。

「やめてもうた」南田偵一
さまざまな事がらが降りかかる〝じいちゃん〟をめぐる〝僕〟や家族たちとの関係が、軽快に語られています。やや饒舌とも思われますが、この語り口によって人生の機微、家族たちの心もちがじんわりと伝わってきます。標準語で書かれる詩が多い中、このようなやわらかな語りもまた魅力ですし、詩の内容にふさわしい表現と思われました。

「けていく」水城鉄茶
詩における空白行は、転調や飛躍の効果を生むための大切なものですが、この詩ではタイトルの一文字を空白にすることによって、詩に膨らみを持たせようとしていて、おもしろい試みです。内容からすれば〝欠け〟〝裂け〟〝駆け〟ですが、そのどれでもない〝 け〟でしょう。そこに詩が隠されてあります。たとえば存在する母が、春のなかで「溶け」てゆくのかもしれません。そのように想像させる効果があります。

【佳作】 
「聖域」貝類
手洗いという強迫観念に囚われている〝娘〟を見ている〝わたし〟もまた、何かに囚われています。その娘とわたしの関係の苦しみが、真綿で首を絞められるように、読む者に重くのしかかってきます。死と向き合う娘の死を妄想します。が、それを否定するために、いのちの奥深さを象徴するやわらかな猫の腹に意識を没入します。現実の肯定と否定の間で揺れるこころのさまが伝わってきます。

「灸」伊渓路加
灸は民間療法から法律上の療法に変貌しました。それによって例えば「灸を据える」という言葉も失われつつあるのではないでしょうか。かつて自分の手に灸をすえて我慢比べをした遊びは、今はありません。この詩は〝灸〟と〝炙〟をめぐる物語。論理の捻りを効果的に使ったり、転調の面白さ、絶妙な語り口など、長い詩ですが飽きさせずに読ませる筆力を見せてます。

「犬の太陽」宇井香夏
〝犬〟と〝わたし〟の関係に、太陽が絡んできます。幼い頃、太陽の終末が〝わたし〟の終末と感じて怯えてしまうのは、山田詠美の短編『晩年の子供』にも見られるように、子ども特有の未知の世界、出来事に対する恐怖心でしょう。長じてくると〝犬〟や〝わたし〟の死の秩序も分かってきますし、太陽がどちらにも等しく影響を与えることも知るようになります。最終連で繰り返される〝べつに〟のそれぞれの後には、世界の真実が見えてきたうえで、自分を納得させる言葉が隠されています。

「アパートを借りた日」春原ひつじ
アパートを借りることによって、物の見方が変わってゆくのですね。そのこころの変化を捉えています。過去との決別、といった常套句では語りきれません。捨てることの切なさと新生活への覚悟のほどが身につまされます。テーマを貫徹する直線的な詩の運びにも魅かれます。今後、展開や飛躍について会得してゆくことを期待したいと思います。

「自分探し」八ツ橋
あえて〝自分〟と〝僕〟を区別する意識が切実感を表しています。その4連目があることによって、詩が成立するように思います。この連によって、あるべき姿を探す〝自分〟と〝僕〟が立ちあがってくるからです。タイトルも詩の一部であり、それによって詩の内容に膨らみを持たせることができるので、工夫が必要と思われます。このタイトルは説明になっています。

◆塚本敏雄選評
「非春の季節」(河上類)
言葉の連なりのリズムそのものが詩になっていると感じました。最初の行などまさしくそうです。同一作者による「ラナンキュラス」という作品もありましたが、こちらの方が良いと思いました。展開に少し無理があるかなと感じた箇所もありましたが、言葉のリズムの強度が欠点を補っています。粕谷栄市氏の詩を思い出しました。

「建仁寺の雨」(竹井紫乙)
展開がおもしろいと思いました。展開だけでなく、言葉に張りがあって、良い詩になっています。最後はどうなるだろうと思いながら読み進めましたが、終わり方も良いと思いました。

「聖域」(貝類)
言葉になっている感覚がとても鮮やかで、素晴らしいと感じました。「娘は/病のなかへ蹲り/手を洗っていた」とか「でも戻ってきたら 必ず後を追うからね」とか、こちらの感覚を刺激する言葉がいくつもありました。これぞ、まさしく詩の醍醐味です。

「熊の秘密」(南久子)
よく意味は分かりませんが、それなのに、惹かれる言葉たちです。「その日は/熊の体臭を嗅ぎ分けて眠った」とか「ココナッツの不味さはいくらでも話すのに/あの戦いのことは何も触れない」とか。不思議な詩です。良い詩だと思います。

「赤い自転車」(守屋秋冬)
主人公は女性なのですね。つまり女性の視点で書かれている。まず、そのフィクショナルな点がおもしろいと思いました。次に、「赤い自転車は消えた」「息子の声がするけど/姿が見えない」「姿は見えないけど」「ふいに風が吹いて/息子の姿が現れる」といった具合に、可視と不可視の変幻が繰りかえされることで詩情を作り出している展開が素晴らしいと思いました。

〇佳作
「境界線」(杉浦陽子)
同一作者による他の作品にも気になる作品があり、力のある書き手であることが分かります。
この詩の場合、「あの日 父は自転車で/わたしを捨てる場所を探しに出たのだ」というショッキングな詩行をもっとフィーチャーして展開させたらもっと良かったのではないかと思いました。

「タクシードライバー」(松波=和泉翔)
語りによって成り立つ詩。語りがスムーズで読みやすい。頭にすんなり入って来る言葉たちも心地良い。こういう詩の場合、語りすぎて余計なことを言ってしまうと台無しになってしまいますが、抑制をきかせて、破綻なく作品を完成させている点も素晴らしいと思いました。

「ただよう」(小田凉子)
分かりやすく共感しやすい詩だと思います。そうだよねと思いながら読みました。ただし、最後の2行は再考の余地ありかも知れません。投瓶通信のように言葉が人知れぬ岸辺に流れ着くイメージの方がおもしろかったかも知れませんね。いかがでしょう。

「おぼえかた」(南田偵一)
方言を使って、まさに語りの詩。ストレートにおもしろい詩です。私も、東西南北を考える時いつも、自分の家の廊下と縁側とトイレの位置を思い出して確認してしまいます。今でもその習慣は抜けません。そういうことってありますよね。「あるある」ですね。

「なみだ坂」(加澄ひろし)
詩情としては決して目新しさはありませんが、丁寧で確実な筆致で描いていて好感が持てます。落ち着いていて破綻がありません。つまり書きすぎの部分がありません。これは素晴らしいことだと思います。私は、「引いて歩いてくれた手を/握り返していたかった」という二行が一番好きです。幼少期と現在という、長い時空を一瞬にして引っ繰り返す感覚があるからです。

◆草間小鳥子選評

 今回、入選か佳作かでとても迷う作品が多かった。完成度としては、佳作に選んだ作品の方が高いように思えるものもあった。しかし最後は、不安定な勢いを推した。
 ウクライナ侵攻の影響か、第24期と比較すると、個人的な痛みよりも正体のない漠然とした恐ろしさや不安を描く作品が多かったように思う。長閑さやたわいなさを否定するつもりはないが、詩人は愚鈍であってはならないという危機感を常に抱えていたい。日常の中で五感を研ぎ澄まし、押し流そうとするものを見極め疑いながら生きる。それから肩の力を抜いて書く。

入選
柳坪幸佳「海に近かった場所」
はじまりから終わりまで、海辺の町の静謐な日差しと微かなさざめきに満ちた一編。段々にさびれてゆくさまがうかがえるが、そこに物悲しさはなく、しあわせな終息もあるのではないかと思わせられる。訥々とした語りと自然な緩急が、抽象画にも似た心象風景を描き出す。無駄を省きすぎないところが良いのかもしれない。

南久子「熊の秘密」
マタギやアイヌの暮らしを彷彿とさせるが、「ココナッツの不味さはいくらでも話すのに/あの戦いのことは何も触れない」に、南方作戦の敗走を思う。全て誤読かもしれないが、誤読を赦す余地のある語り口に救われる。「声を大に言いにくいことでも詩なら言えるかもしれない」と話した詩人がいたが、詩には、言いたくても言えないことを言わないことにより表現する力があるのではないだろうか。「ただ本当のことを語れるか/怖くなる/そして それをいつにしようかと」この結びが、もしかすると語られなかった事実よりも鬼気迫る予感を読者に与える。

河上類「遠景」
ひとつの人間が徐々に引き剥がされ、分人へと深化する過程を描いた作品なのではないかと解釈した。「ふるさと以外に愛することのできる景色を持つ者にしか分からない、ふるさとの座標というものがあり、」の定義が潔い。三連目、所々観念的でモチーフに引きずられてしまう印象がある。外へ出たり、誰かと話したり、手作業をしたり、読み書きから少し離れた場所で詩を構築してみてはどうだろう。余計なお世話かもしれないが、静物的な詩に身体性が伴うのではないかと思う。

帛門臣昂「十代」
十代の青い痛みを叙情的に謳う作品は甘ったるくて苦手だ。しかし、この連には妙に納得させられた。「十代は/丸十年ではない/間違いだらけの/最後の三年のみを指す/あたかも夏と言われたら/暑さの階調を忘れて/晩夏八月/ただ一ヶ月を思い浮かべるように」。十代を根拠なく讃えるわけではなく、かといって愚かさばかりを恥じるわけでもない、無駄のない言葉選びと旋律に裏付けられた清廉な語り。これがある年代特有の感性なのか、作者の技量なのか、今後に期待したい。

佳作
岩佐 聡「母が恋愛していた頃」
レトリックの多用は主題が散漫になりがちだが、本作はひとつのテーマが通奏低音のように一貫して詩を支える。ただ、鋭い一行とあざとさを感じる一行とが混在している印象。もしこの作品群が詩集になったらと考えると、中盤、やや単調に感じてしまうのではないだろうか。言葉を減らしてみてはと思うが、この暴力的ともとれる修辞の集合体こそが作者の魅力なのかもしれない。

竹井紫乙「建仁寺の雨」
SNSで、ショートショートと詩の相違に関する意見を目にした。ショートショートは、常識を覆す不思議を語るもので、いわば常識が根底にある上での既成概念の破壊である。他方、詩は常識や時間軸から解放された状態から立ち上がり、全ての非合理を肯定する。この作品もそうだ。各所に散りばめられたユーモアにセンスが光るが、特にこの連が秀逸。「わたしが拾った手紙は龍が書いたものなのだろうか。いいやそんな感じの手紙ではなかった。(中略)優しさや思いやりは売り物になるのだ。わたしはそういったものを売買して生活している」。しかし最終行が冒頭に紐づけられる点は「ショートショート的」だろうか。わたしなら削る。

鳥井 雪「オフィーリアin湯舟」
幼い娘が湯船に仰向けに浸かっている情景から、詩は一路オフィーリアの悲哀へ。母は娘へ、脅威や悪意へ屈しないよう背中を押すが、直接的に手は下さない。いつの日か娘が傷つきながらも毅然と立ち向かうことを祈り、「娘/その体で/生きてくれ ずっと」と願う。ストレートで、一言一言が力強い。「おまえが傷つけられたことは/なにひとつおまえの傷ではない/なにひとつおまえを損ねることはできない」、この言葉に魂がまるごと救われる。

南田偵一「おぼえかた」
とある町で、大人が子どもに右手と左手の手の振り方について手ほどきをしている。左手は好きな人へ、右手はそのほかの人へ振る、とおぼえると良いのだと。「勒安寺が学校の裏にあるでしょ/あっちが北よ/そんでスーパーイツキ堂があるんが東/ボウリング場があるんが南/マヨネーズ工場あるんが西/あんたらが大人なっても、きっと北は残っちょる/他はなくなっとるかもしれんけど」軽妙な語り口には愛が溢れ、知らない街や人が愛おしくなる。

守屋秋冬「赤い自転車」
自転車の練習をしていた幼い作者のサドルから、亡き父が手を離し、「あの瞬間から/わたしは/一人で生きているつもりになったが/ずっと/見守られていたのだ」と気づく。真新しい概念ではないだろうが、この対比に気づく過程の描き方に切実さがある。ただ、自転車に乗りはじめたばかりの息子が葬式に遅れることを気にするだろうか、喪服で泣いている母親に「どうしたの」と尋ねるだろうかなど、その存在や言動が道具立てのようで違和感があった。

安藤行宥「無数の差異の朝」
無数の差異を、多様な主述の並列で描く。主張にも手法にも新奇性はないかもしれないが、同時多発的な輪唱を味わうような、観劇に似た臨場感があった。

上記のほか、守野 麦「美しいものの一覧」、四塚麻衣「朝市」、村口宜史「かくれんぼ」、鈴木歯車「ごご」、サイトウマサオ「きのみぐら」、などにも惹かれた。

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