詩投稿作品 第20期(2021年1-3月)入選作・佳作・選評発表
日本現代詩人会 詩投稿作品 第20期(2021年1-3月)
厳正なる選考の結果、入選作・佳作は以下のように決定いたしました。
【選考結果】
■片岡直子選
【入選】
石川順一「秘密」
ややはやしだ「走る車」
中山祐子「くもじろうが語るには」
秋葉政之「希望の言葉」
横山勇気「表面張力」
【佳作】
畑谷友香「街の箱」
霜中透「後悔」
澤瀬のぞみ「透ける宇宙」
細川耕佑「あいた」
帛門臣昂「永遠の休日」
■上手宰選
【入選】
吉岡幸一「観覧車」
山可羊日「はだいろと鶏」
中山祐子「くもじろう」
岡堯「気泡」
【佳作】
雪柳あうこ「神無月の野」
佐々木さとる「消える」
武田地球「静止と運動」
高橋蒼太郎「無為自然」
■福田拓也選
【入選】
吉田誠一「ひかり」
池田伊万里「壁と歌」
匿木 匿「ベイビーワンモアタイム」
涼夕璃「バスルームにて」
烈堂清「三月の陽炎」
【佳作】
石川順一「秘密」
村口宜史「照準」
佐藤 幹夫「共生」
中マキノ「隔園」
義若ユウスケ「千年」
<投稿数468 投稿者302>
石川順一「秘密」
語彙が無化されて
水が欲しくなった
生活(たつき)を得るのは
自然から
野人が美しかった
束ねられた過去と未来が
現在にお湯を注いでいた
土が垂線を降ろす頃
私は風呂に入って居た
脱衣場で耕作していたなんて
誰にも言えなかった
ややはやしだ「走る車」
ウインカーをあげる ハンドルを右へ回す 左右を確認する
アクセルを軽く、踏み クラッチをゆっくりあげ、 ここ、ここで我慢
対向車がいる ギアを変えよう ちょっと速度が出てなかったかもしれない
徐々にアクセルを踏み 小回り 小回り
アクセルを踏んで 加速して 三に入れて ブレーキ踏んで クラッチ踏んで ギアを変える
うっまぶしい
左折 直進 坂 減速 対向車がいる ちょっとアクセル 左折
交代
車が動き出すとわくわくする バイクがたくさん並べてあって色とりどり
季節の過ぎた門松がいつまでたっても並んでいる 使われていない教習車
並木の葉は落ちていて奥の畑も寂しそう 対向車の運転手は知り合いっぽい
連なる山は青黒く霞んでいる 湯気を出してやさしく沸騰している
うっまぶしい
子どもが笑う野球のグラウンド この時間 人はいない
車でしか走らない この場所を 歩いてみたいと思う
でも免許を取ってしまったら 歩かなくなるんだろうなと 悲しく思う
私が見なくてはいけないのは、人々の生活ではなく、無機質な道路に、変わってしまう
いやだ
交代
中山祐子「くもじろうが語るには」
あたしは妥協をゆるさず
わずかな綻びもゆるさず
編み上げた巣の中央で
八本の手足を伸ばしたあたしの肢体は
終わってゆく一日を引き伸ばそうと
人間が虚空にのばした手のように
見えはしないだろうかと考えていた
あの手よりあたしは全きもので
強きものだと証するためにも
捨てられても捨てられても
壊されても何度でも
戻って営々と巣を編み上げた
“くもじろう”なんて男の名前をもらって
まあいい それはそれでいい
要点はそこじゃない
あたしの編み目に人間の心なんか
引っかかったことが嬉しかったのだ
あたしのうぶげが夕映に金色なことも
夜露がクリスタルビーズのように
おさまっていることも嬉しい
あたしはひょっとしたら
剥がれ落ちてゆく思い出やら
こぼれ出てしまう悲しみなんかも
この糸で絡め取ってしまうことができるかも知れない
自分が万能で特別なものに思えて嬉しかったのだ
嬉しがっていたあたしは不意に
鳥のくちばしに攫われて
あたしの八本の手足は引きちぎられて食べられていった
あたしの八個の目は涙なんか流さずに
最後に思い切り放った糸が
なんだか流れ星みたいよねって
見てただけ
それであたしは終わったけど
悪くはない
秋葉政之「希望の言葉」
理解できないし
異様だとも思います
すき間を縫うような
雑談のさなかに放たれ
一時の盛り上がりとともに
証拠も残さずに消える
さざ波のような声ではなくて
インクで濡れたペン先を
大胆に導いて
希望の言葉を記すとは
厚顔をあげつらうつもりは
全然ありません
ただただ不思議でたまらないのです
希望というと
未来にばかり目が行きがちだが
過去をこそ土台としており
宿命的に過去のほうが
未来よりも〝大人っぽく〟見えるのです
だから希望の言葉を記すとき
ぼくは証明を要求されるのです
数式でも論理でもなく
生れてから死ぬまでの
全行程を懸けた証明を
それは昔が悪くても
今を皮切りに
これから先きっと良くなっていくことを
たくさんの大人たちの嘲笑と涙と自棄を
全身に浴びつつも
信じ続けますと
告白するに等しい
ぼくが傷つけた人が
壊した玩具が
それを許してくれるだろうか
人間性に難があっても
自分を信じて良いのだろうか
横山勇気「表面張力」
雨が降りだしている
濡れていない場所は陽の落としもの
グラウンドの匂いとひざ小僧たちの匂いが
混じりあいはじめていた
見ると子どもらが集まって
傘たちが重なり合うドームをつくっていた
それはモダンな秘密基地
グラウンドのなかでしゃがみ込み
乾いた場所をみんなで守る
というちょっとした意地悪
水分はひとつになりたがっている生命だから
私は一味に加えてもらおうと思って
裏門からまわってちかづいた
覗き込むともう子どもらは誰もいない
みんなどこかへ連れていかれてしまった
いくつもの傘から雨粒がばらばらに当たる音
一人で聴いた
キラキラネームたちの傘
ひとつひとつ閉じる
無数の見えない雨が集まってきて
乾いていた地面の上をとびはねていた
吉岡幸一「観覧車」
観覧車に乗ったのは景色を楽しむためでも恋人と語らうためでもありません。加え、ただの暇つぶしに乗ったわけでもなく、観覧車に興味があるわけでもありません。観覧車に乗れば、頂上にさしかかったころ、島が見えるのです。人口二百人たらずの青いちいさな島、そこに彼女は暮らしているのです。
その島は猫がとても多くて、猫好きの観光客が日に一往復の渡船を利用して渡っています。船着き場をまっすぐに進んだ突き当たりに彼女はうどん屋を営んでいます。古びた木造の店で、お洒落とはいえませんが平日でもそれなりに賑わっているようです。僕は客として店に行き、彼女と出会ったのです。
彼女が老人だといったら驚くでしょうか。恋のはじまりを想像していたとしたら申し訳ありません。僕は性的な意味ではなく、存在感そのものに魅了されてしまったのです。存在感などといわれても曖昧でよくわかりませんか。なら生命力とでも言い直しましょうか。存在していない僕とは対局にいる、それが彼女なのです。
うどん屋に頻繁に通うつもりでいました。十八回ほどは海を渡っていったでしょうか。しかし十九回目行くことはありませんでした。よくある死です。平凡な死です。たまたまその場所が観覧車の真下だったのです。肉体からスウッと、離れた魂は首にくくりつけられた縄をつたって観覧車に乗り移ってしまいました。
十八回目に島に渡ったとき、僕はこっそりと連れてきた十年飼っていた猫を島に放ちました。捨てたといってほうがよいでしょうか。うどん屋の彼女に引き取ってもらいたかったのですが、理由を説明する勇気もなく、うどん屋の裏に猫を置いていきました。猫は今ごろどうしているのでしょうか。死んでいるのかもしれません。
彼女は生き生きとしていました。厨房で作られたうどんをせっせと客に運んではとても楽しそうに話をしていました。十八回行った僕も顔を覚えられ話しかけられるようになりました。大学で何の勉強をしているのか、と尋ねられるくらいでしたが、その程度のことが嬉しくて堪らなかったと言ったら信じてもらえるでしょうか。
おそらく彼女は八十歳を超えているでしょう。いつ死んでもおかしくないはずなのですが、死からもっとも遠くにいるように思えてなりません。生きることは辛くないのか。傲慢で滑稽な質問でしょうね。尋ねるまでもなく彼女の笑顔が答えなのはわかっています。ああ、僕が捨てた猫を彼女が抱いている姿が見えます。
観覧車の箱に乗って彼女のいる島とうどん屋を眺めるのが今の僕の生活です。もう死ぬ心配がないので不安もありません。観覧車は何万周回ったでしょうか。もしかしたらすでに彼女は死んでしまったかもしれません。もう三年は彼女の姿を見ていません。捨てた猫はいつの間にか彼女に似た小さな女の子に抱かれています。
しっとりと空が濡れる頃、観覧車はしずかに止まり眠りにつく
月や星に照らされた島は夜空に浮かび遊びだす
うどん屋の屋根で猫は静かな寝息をたてている
根拠のない勝手な想いを塗り込められた人は海に潜り消えていく
憧れの果てに憧れから逃げてしまった若者は
手に入れられなかった理想に蓋をしてみたが
その蓋をあけて覗いてみれば幻が踊っている
観覧車の箱から降りるには
止まったときに力を込めて扉を開けなければならない
山可羊日「はだいろと鶏」
下校のときにみる
褐色の少年少女に囲まれた
ひとりだけ肌の色が異なる我が子
なにが違う、なにも違わない
何もかもが違う、そうかもしれない
親をみつけて駆け寄る
まだ五歳の子供たちの頼りなげな脚取り
なにが違う、なにも違わない
少しずつ違う、そうかもしれない
同じ通りには動物の肉を売る店があり
まだ羽をむしり取られる前の鶏が
ケージの中にひしめいているのが見える
大都会と呼ばれるニューヨークに残る
数少ないこの店で
今日も鶏が選ばれ、肉になる
通りに鶏の悪臭が強く漂うときは
子供たちは驚いて眉間に皺を寄せる
それでも、鶏がみたいと子供はせがむ
しかしやがて、その店を見なくなる
大好物のフライドチキンを食べたくて
それでも、悪臭は再び現れる
それを嗅ぐたびに、生きた鶏を思い出す
茶色の羽の、まるまるふとった鶏が
何十羽も、ふたつの目をきょろきょろさせ
小さく足踏みしている
なにも違わないように見える、鶏たち
夕陽を浴びて家路に着く、子供たち
なにが違う、なにも違わない
何もかもが違う、そうなのかもしれない
中山祐子「くもじろう」
お祭りで綿菓子をくるくる掬い取るように
怒ってる蜘蛛ごと巣を木の枝で巻き取って
遠くの草むらまで捨てに行くのに
捨てても捨てても何度でも
翌日には同じ場所に巣が張られていた
どうやって帰ってくるんだろう
君 よほどここが気に入ってるんだな
確かにここは夕焼けが一番よく見える
粛々と丹念に紡ぐ“くもじろう”の仕事ぶりは
見ていて美しいものだった
縦糸を張り
往復して補強し
巻き取られたものを巻き返すように
ぐるぐるまわる
お尻から出てくる糸は
うううんと踏ん張っているのかい
涙のように勝手に出ちゃうものなのかい
生きることへの執着なんかがねばねばと
生きなければならないことへの重みなんかがねとねとと
君のおなかの中で紡ぎだされるのを
まっているね くもじろう
しかしながらあっさりと
称賛や干渉をしりぞけるかのように
名前を授けた翌日にくもじろうは
いなくなってしまった
よほど名前がきにいらなかったのか
わからないけれど
『個』になることで可能性なんかを
捕らえてみようと考えたのかも知れない
あるいは
落ちてゆく夕陽を受け止める網を張ってやろうと
もっともっと大きな網を張ってやろうと
意気揚々と君は旅立っていったのだろう
岡堯「気泡」
深い夢想の海底の闇に沈んでいた
気泡がひとつ ふわり離れた
持ちなれないスピードに
体積を膨張させ
浮上する
もうどこの世界にいるのか
りゅうずを回しても
時は見当たらない
気泡の速度は緩慢となり
ひかりが錯綜する
水面にふれる頃
体積は最大化し
ゼロスピードの瞬間後
大気に消えた
あれは気泡だったのか
ひもじい荒野をさまよう
象だったのではないか
未来を踏もうと前足から崩れ
おそろしい死の世界に
ひとり入っていった
象だったのではないか
吉田誠一「ひかり」
ベランダの手すりがひかってみえる。いちめん雲が垂れ込めているのに、どこからひかりが漏れるのか。見れば手すり以外どこも薄青い影に覆われている。
窓を開けると雨の匂いが入ってきた。不規則に草木の葉がゆれている。ひらひらひらひら、明滅するかのように。雲は斑に暗く足早に流れながら、ところどころぼんやり日が透けている。でも、手すりをひからせるほどじゃない。町はひっそり沈み込んだまま、家々はどこも身を伏せて、遠く西の丘の頂きだけが切り取ったように黄色い日を浴びている。しばらくすると、急に強い日が差してきた。それは意外な角度からだった。途端に、景色はふだんの顔をとり戻し、それでも相変わらず草木がゆれるから、すぐまた裏返したようになるのだろう。
こうしたことは子どもの頃にもあった。ふいに道端の草がひらひらひらひらしはじめる。と、垂れ込めた雲間から明滅するように日差しが見え隠れする。辺りはひと気もなく妙によそよそしい。見なれた景色が知らないもののように色を失っている。家に帰ると、部屋の中も同じだった。それほど気温が低いわけでもないのに、ひっそりと青ざめた空気が蔓延していて、それは電灯の明かりも薄ら寒く感じさせ、どこにも居場所がない気がした。
いまも、こんな雲ゆきになると思い出す。あのとき見た軒下の暗がりや、物干しの端に震えていた蜘蛛の巣、タールの電柱、たわんだ電線――。
また、雨雲が膨らみはじめた。
草木の葉がひらひらひらひらせわしない。
手すりばかりが、ひかってみえる。
池田伊万里「壁と歌」
ー安らかに施された歴史のはざまで
相反する問は静かに両立する―
わたしは凍えた冬に向かって体を熱くしていた。痩せ
ていく花束、あるいは名前を失ったひとりの少女とし
て、天秤の片方に何も乗せることが出来ないまま晴れ
渡る空を見上げていた。
逃げているのか、それは怯えてい
るからであるか。お前のその忌ま
わしい情欲が乾ききった水を濡ら
すとき、春の氷のような理想は暗
く狭い天井に誰の顔も映すことは
出来ない。
人に優しくすることはひとつの詩を裏切ることか。人
を想うことはすべての窓を閉ざすことか。穏やかな秋、
わたしは荷を失ったひとりの旅人となり、閉じた花弁
を口に含めずに止まない雨空を見上げていた。
お前は自分が誰であるかが分から
ない。蒼をはずされた肌と肌のわ
ずかな間隙で、愛は夏の静けさの
ように干からびていく。殖えてい
く無数の逃げ道のすべてを走り抜
けたとして、重い体のその翳りを
決して軽んじてはならない。
人を愛することは陸を目指して孤独に耐えることか。
その海の底知れなさにひとり絶望する夏、わたしは敗
者の両端を結んだ一握の無意味となり、寄る辺なさに
目を腫らして曇った空を見上げていた。
お前は果たして誰であるか。誰か
である必要があるか。誰かでいる
必要があればそこにお前はいたの
か。すべてにおいて情欲とは己の
舌を噛み切ることに等しく、煮詰
めていく秋の風に吹かれた片隅で
その悲しみを誰にも背負わせないと決意したのであれば、
待ちわびた春は別の空を示していた。欲したものを手にす
ることはそんなにも大切なことか。わたしはどれにも触る
ことが出来ないまま再び人に優しくありたいと願い、新し
い空に架かる柔らかな虹を見上げていた。
逃げ延びたお前は
また次の冬に辿り着く
壁は果てしなく拡がり
遠いかすかな歌が聴こえた
匿木 匿「ベイビーワンモアタイム」
お母さんと歩きながら、
テイラー・スウィフトについて熱弁をふるったことがあった。「“ワイドショー嫌い”だったではないか?」彼女自身が(当時)29年越しのプロジェクトであり、作品なのだ、と言い返した。
「(中略)作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。」–『推し、燃ゆ』宇佐見りん
“Remember, no matter what we think we know about a person’s life it is nothing compared to the actual person living behind the lens.” – Ms.Britney Spears (Tweeted Feb.10,2021)
ところで、
「彼女」がどういう人物なのか、
昨日とそれから今日考えて、おおよそのところ、分かってしまった。私が彼女を一方的に「発見」したのは、昨日。
しかしそれはもちろん、彼女の「フィクションの登場人物的側面」にフォーカスした場合ということである。
スピアーズが言うところの「レンズの向こう」とは、
すべての紙とインク(あるいはブルーライト)を透過できないすべての物事を指している。そう断定できない理由がある?
紙とインクで隔てられた向こう側に、我々には見えない彼らの生活がある。無意識にそう感じ取らせる作品を我々は「傑作」と呼んでいるのではなかったか?
「イエス様はトイレに行かない?」–バスチアン・バルタザール・ブックス
“articles treat the persons in real life as fictional ones. novels treat the persons live in fictional dimension as real. (and from my own point of view the latter is more sincerely in a certain way)” – ???(デレク・ハートフィールドではない誰か。)
ーーーーーーーー
なお私は懐疑的である。特に、”more” “sincerely”という単語の列は、果たして成立しうるのか?
ーーーーーーーー
P.S. Britney、あなたの大ファンです。初めてiTunesで課金したミュージック・ビデオは…あの頃のipodのコントローラーは皆親指で回していました…ベイビー・ワン・モア・タイムです。16歳になったら自分もこんなふうになるのかな。と、本気ではないけど、ぼんやり考えました。あなたは「サーカス」をリリースしたばかりでした…ライオンを操るあなたの動きをどんなに目で追っても無駄でした、
あれは魔法のようだった。
涼夕璃「バスルームにて」
ほかになにも望んでいないのに
なんでこんなにも苦しいのか
きっといちばんほしいものが
もう絶対に手に入らないからなのだと
自分で聞いて自分で答えて
自分で傷ついて自分を呑み込んだ
湯船がミシリと軋んだ流星群の夜
烈堂清「三月の陽炎」
コロコロと楽しげな
潮騒とぼくは炭酸飲料
目をとじれば
16時の空とぼくは淡い水彩画
ふと向うには
三月の陽炎が
鏡写しに突っ立っていた
◆片岡直子選評
初めて描かれた詩を、多く読みました。生まれたばかりの詩人は、背景に蓄積を持ち、これからいくらでも羽ばたき、あるいは潜っていく可能性が感じられます。高校生の詩は、常に興味深く、小中学生も健闘していました。
全ての詩を4回拝読し、良質で好感の持てる詩は沢山あったので、そこからこちらへ一歩、抜け出てくる詩を、探しました。全体に、連ごとの張りやツヤ、緊張感が、もっとあっても佳いのかしらとも思いました。
数も多く、気になったのは、佳いフレーズを複数含む詩の終わり方が、あっけない場合です。「そっけなく終わる詩」は、本当は理想なのですが、何もしていないようなラストに、推敲百回という詩人もいて、本当はとても工夫している箇所を、そっけなく感じてもらうのが、理想かしらと思っています。例えば、思い切って最終連を省く、という方法も、考えられると思います。詩の絶頂を際立たせるため、なんとなく書いてしまったラストを捨てる。そうすると、読者を断崖絶壁へ置き去りにするような詩ができるのかも。一番書きたかったことは書かずに読者に感じ考えさせる。書き上げた詩を、最初の読者の目で、突っ込みを入れながら読み返すのも一案かと思います。今後の応援の意味で、選外佳作のリストも載せてみました。
【入選】(作品は、到着順)
石川順一「秘密」
「脱衣所で耕作」に衝撃を受けました。ある意味で私は、脱衣所という切岸に置き去りにされたのかも知れません。
ややはやしだ「走る車」
若者が、マニュアル車の教習を受けている。車から見える風景、そして教習卒業後に思いをはせて。「交代」が効いています。
中山祐子「くもじろうが語るには」
繰り返し、辛抱強く蜘蛛の巣を片付ける女性の詩との連作で、こちらは蜘蛛目線。描写も無駄が無く丁寧で、可笑しみ、哀しみも込められて。最終行、あと一工夫してみても佳いかもしれません。
秋葉政之「希望の言葉」
「過去のほうが」「〝大人っぽく〟見える」。最終連は、安易に使われがちな表現への、鋭い問いかけになっているのですが、それ以上に、途方に暮れた感じが伝わって、胸に残りました。
横山勇気「表面張力」
子供たちの造った傘のドーム。「一味に加えてもらおうか」という動きからの展開。降っているのに、明るく感じられる読後感。
【佳作】
畑谷友香「街の箱」
夕暮れから始まる詩ながら、朝のさわやかさを持ち合わせている。続く日々を濃縮、発見をしながら街を輝かせていく。最後に「僕」に集約する落とし込み方も心地よい。
霜中透「後悔」
三倍の年齢の評者にも届く、普遍性のある詩句。最終二連は、明るい諦念に、かえって成熟した心を感じさせる。大切な人の声を聴きたくなる。
澤瀬のぞみ「透ける宇宙」
コメント欄の言葉も詩の入り口になって。うたたねに入る前とその後、探そうとしなくても、詩が向こうからやってくる。「手」は身体のうち、かなり客観的に眺めることのできるパーツ。それを無限に見詰め、耳を澄ませ、描かれた詩。
細川耕佑「あいた」
息を吸って吐く間に、生まれたような詩。このタイトルはなかなか思いつかない。後半、あまりにも、冗談(?)のように、センチメンタルに滑っていってしまうけれど、タイトルを損なわないところで、詩が終わって佳かったです。
帛門臣昂「永遠の休日」
「私には平日が来ず休日のまま」という気づきから詩が深まって。最終連の、閉じ籠り方も美しく、詩が力を漲らせて結実したと思いました。
〈選外佳作〉
山可羊日 「はだいろと鶏」
イコマーチ 「眠り」
松本大悟 「白」
梶原光生 「青空」
眞柄史織 「絶望と希望の狭間で」
筆名(ヒツメイ)「ホーム」
烈堂清 「三月の陽炎」
柳坪幸佳 「夏の終わりの遊泳プール」
勝部信雄 「夏の骨」(可能でしたら改作前の)
水城鉄茶 「喫茶店にて」
◆上手宰選評
【入選】
吉岡幸一「観覧車」
吉岡さんは他の作品のいずれも注目に値するものでした。短く鋭角的な「節目」、人間界の欲望を摘出する「披露宴」にも惹かれましたが、生死を超えた愛情の深さと、観覧車に死者の魂が乗り移っているという設定の魅力からこの作を選びました。愛の対象が、ある島に住むうどん屋の老婆というのも不思議ですが、数限りなく回転する観覧車から彼女を探している間に、彼女が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる、といういわば永遠の悲しみのようなものもほのめかされています。それゆえ最終部分において、死の状況から、もう一段先の死を連想させる「観覧車の箱から降りるには/止まったときに力を込めて扉を開けなければならない」との予感で締められているのもみごとでした。
山可羊日「はだいろと鶏」
ニューヨークで、友人たちと一緒にいる我が子は他の子どもたちと肌の色が違う、との認識から詩は語り始められます。それについて作者は「なにが違う、なにも違わない/何もかもが違う、そうかもしれない」という対立する命題を唱えます。これはリフレインされ幾度も出てきますが、それは食用にされる鶏を語る時により熱がこもります。その地域は悪臭が匂い、子どもたちも眉間に皺を寄せるほどです。それでも我が子はそこに行きたがるという矛盾のようなもの。筆者の若い頃には、色の名前としてあった「肌色」は今はなくなったそうです。肌には多様な色があるのにかつて私たちが呼んだ「肌色」に固定するのは人種差別に当たるからです。わが子の肌の色と焼かれる鶏の色を緊張感の中に描き、違いとは何か、それは量なのか質なのかとの哲学的問いと社会的な差別とを象徴的に交差させた秀作となりました。
中山祐子「くもじろう」
蜘蛛の巣を綿菓子を作る時のようにくるくると巻いて取り除くという引き込まれる始まりから、いくら取って捨ててもまた蜘蛛は巣を作るといういたちごっこに進む頃には、作者の中に何やら愛着のようなものが湧いてきているようです。非常に魅力的なのは「確かにここは夕焼けが一番よく見える」の行で、食事にありつくためにではなくロマンティストの作者と蜘蛛が同化しているのでしょう。しかし彼女が蜘蛛の働きに感心し始め、名を与えると彼はいなくなってしまいます。先にも出ていた夕焼けをもう一度出してきて「落ちてゆく夕陽を受け止める網を張ってやろうと」して出ていったのだろう、と想像するあたり、蜘蛛への愛情が童話ふうな魅力をもかもし出しています。同じ著者による「カラスの談話会」も社会に対する批評意識の高さと語り口の面白さで注目しました。
岡堯「気泡」
「深い夢想の海底の闇に沈んでいた/気泡がひとつ ふわり離れた」から始まる非常に単純といえば単純な作品。同じ作者による「ナメクジの殻」という鎧のような殻と自由を語った面白い作品もありましたが、あえて単純なこの作品を推すことにしました。海底から水面へと上昇していく気泡というだけの物語ですが、その様子が簡明です。気泡は水圧の違いで次第に大きくなるだけです。しかしその最後には異次元の展開が待っています。大気の中に突入すればその存在自体が無にも等しいものとなってしまうからです。それを「ひもじい荒野をさまよう/象」と感じ、「未来を踏もうと前足から崩れ/おそろしい死の世界に/ひとり入っていった」ものと感じ取る感性のあり方に心打たれました。小さな小さな気泡が主役でなくてはならなかった理由がそこにあったのかと。よい詩は単純で深いたくらみを胸に抱いていることを思い出しました。
【佳作】
雪柳あうこ「神無月の野」
冒頭の「神様が留守にすると/秋は、素知らぬ顔で/その不在を誤魔化そうとする」から引き込まれます。その中にあって、「わたしがわたしになろうとする/途方もない野心を」抱く作者まで紛れ込んで秋は何やら賑やかです。自然の秋、収穫や祭りなどの秋、伝承の中に住む神々。そうしたものの周縁を予感させる作品でした。
佐々木さとる「消える」
近所に住むJ氏との釣り行が精緻に描かれていて読ませます。快感を感じさせる文章力です。二人の関係はどこか謎めいたままで、ややカフカ的ですが。黙々とした釣りの光景も、魚がかかってからの描写も活き活きとしています。また最終連の銀紙欲しさに急いで食べたチョコレートの味への転換もみごとで描写と比喩の職人技を見させていただきました。
武田地球「静止と運動」
車に轢かれた空き缶に自分の気持ちを重ねた作品です。いわゆる現代詩的な気取りや奇策は全くないのですが、無駄のない表現で共感を呼びます。潰れた缶を見ていて「ふと、わたしが寂しがっていることに気がつく」。こうした表現は簡単そうで実は難しいのです。惜しいと思ったのは「あたらしい夢はきっと見つかる」。焦って概念的な言葉に逃げないようにしましょう。
高橋蒼太郎「無為自然」
方言の魅力が満載です。発言要旨は昔から言い古されていることですが、案外それが大事なことなのでしょう。リズムよく畳み込まれて快感でした。相手を詰り説教を垂れながらも、語りと論理の底に愛があることが感じられます。
◆福田拓也選評
【入選】
吉田誠一「ひかり」
どこから光が来るかもわからないのにベランダの手すりが光って見えるという不思議な風景を書いた魅力的な散文詩。とりわけ「遠く西の丘の頂きだけが切り取ったように黄色い日を浴びている」というところ、風景がくっきりと浮かび上がって来る感じがして素晴らしいです。「すぐまた裏返したようになるのだろう」までの前半部分が特に優れていると思いました。
池田伊万里「壁と歌」
独自の断章形式が心地良い。特に「天秤の片方に何も乗せることが出来ないまま晴れ/渡る空を見上げていた」という部分の鮮烈さ、そして、「壁は果てしなく拡がり/遠いかすかな歌が聴こえた」という最後の二行が圧倒的。この最後の二行からの展開も見てみたいと思います。詩が短くなってもいいですから、「愛」などについての考えは書かない方がよりインパクトが強くなるかと思います。
匿木 匿「ベイビーワンモアタイム」
文脈や固有名詞についての情報を共有させようとしていないためにほとんどわけのわからなくなっている語りが魅力的です。実際日常生活で発せられる言葉の大半はそういうものですね。とりわけPSの部分がいいです。ただ、引用部分と最後の「あれは魔法のようだった」がない方がより先鋭さが増すような気もします。文脈を説明しないことによるこのわからなさは大きな才能であると思いますので、この才能を大切にしてこのような説明なしの詩をどんどん書いて行くと面白いと思います。
涼夕璃「バスルームにて」
つらい心境を書いた詩として展開しますが、最後に「湯船がミシリと軋んだ流星群の夜」という詩行が介入し突如宇宙的な空間が開かれるところが鮮烈です。
烈堂清「三月の陽炎」
明るい軽さを感じさせる短詩。異質な要素の出会いの絶妙な距離感に才能を感じさせます。最後の三行「ふと向うには/三月の陽炎が/鏡写しに突っ立っていた」が強いインパクトを与えます。18歳という若さもあり、これからが楽しみです。
【佳作】
石川順一「秘密」
詩行から詩行への飛躍が心地良いです。現代詩の読み書きの相当の経験を感じさせます。最後の二行「脱衣場で耕作していたなんて/誰にも言えなかった」が鮮やかです。
村口宜史「照準」
最後の「西の塔の窓が、閉められている」という詩行が独自の空間を開き、詩の中に空気が流れる感があり、一つの詩が見事に完結しています。
佐藤 幹夫「共生」
ちょっと土俗的な独特の抒情が魅力的です。犬と森に「疎外」される「私」のあり方に説得力があります。「疎外され/別の径を歩かされる」という最後の二行が異空間を開いているところも秀逸です。
中マキノ「隔園」
どこか宇宙的な風景の展開される散文詩。特に「白い犬が木を見あげていて宇宙なのだなと思った駐車場の名前、看板を覚えている触った冷たい」という部分に惹かれました。このようなちょっとわけのわからない奇妙な言葉のつながり方、とてもいいですね。全編こんな感じで行くとすごいことになると思います。
義若ユウスケ「千年」
とても書き慣れている詩人という印象です。「ひび割れ」というテーマが魅力的。とりわけ最後の詩行「星のまどろみを抱いてひび割れていく」がいいですね。