日本現代詩人会 詩投稿作品 第7期(2017年10-12月)
厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定致しました。
【選考結果】
第7期詩投稿欄 2017.10-12 入選作
八木幹夫選:
【入選】
橘 麻巳子「千年流し」
橘 麻巳子「国境」
河 うそ子「家族の食卓」
【佳作】
田中修子「わらう母たち」田中修子
右田洋一郎「わがままな水」
石田瑞穂選:
【特選】
采目つるぎ「3 Songs for Crying Valkyries」
【入選】
黒崎水華「蝸室に於ける考察」
橘麻巳子「千年流し」
渡辺春夫「あおくてはやい風が吹いて」
芦野夕狩「プラネタリウムについて」
【佳作】
みごなごみ「イットロベーガ ヒッツイタ」
右田洋一郎「GRADUATION」
橙兄弟「銃声が鳴った」
発条ねりさす「まひるの平野」
冬川遊花「いなくても」
杉本真維子選:
【入選】
畑中しんぞう「津波」
珠望「誕生日」
発条ねりさす「まひるの平野」
石澤 紀「詩のすすめ」
みごなごみ「イットロベーガ ヒッツイタ」
投稿作品:265作品、160名(敬称略/順不同)
千年流し――橘 麻巳子
故郷までの道程を
象っていた ぶれのない縮小模型
縮尺どおりのぬかるみも
「郷の道から持ってきた」
それなら、帰ってくればよかったのに
「帰ってしまったら、
ふたたび帰る場所が無くなる」 そうか、
故郷は過去の一点ではなく、
回帰の歩みをつづける理由か
始めの位置を周回している 今ではきっと
性質で
臓腑に落とす一滴ずつの記憶
水銀の質感で
ゆれるおもてを目立たせる 変容のしるし
転んで ついた手形も残らぬ
流れ着いたものたち
遡れば、なにかの一部だったもの たとえば
乾いた甲羅 裏返ったまま
苦痛あきらかにする声に
ゆれ、
眼の奥に寄せる波は
海のない街にも 朝から朝を運んで
漂流物を嵌めたステンドグラスはおおきく
おおきく作られて あまりにも
おおきくなった導きに
生きない者の声まで響く
ここでも 息 なくしてしまった人がいる
(身体なんて、)違う
身体こそ おろそかにしない
蝋燭かざすてのひらは生まれたて
やわらかな指先 まるめて
甲羅に嵌めていた 変温動物のジェスチャー
温度持ちはじめる不在に
示してほしい 水中での吸い吐き、
仲間を呼ぶとき使う囁き、
それらの波動が水面をゆらし
ずっと昔だ 似た季節にもこうやって
向こう岸に渡れなかった仲間の匂いが
苔生して
時の流れが散らした事象の
区切りの隔たり取り去り 束ねて
納得の流れ切りひらく水路に
別れを告げる人物 浮かべて
一束にし、模型に吊るす
以外のものは明日 きっと
郷の土から生え出でてくる
車輪の割れた旅行鞄に掛けられた
指は黄色く わたしの頬より
(あたしたちは運ぶことに慣れてる、
雌蕊みたいにつややかな鼻が
近くまで寄る 噛み煙草の甘さだ
かろやかに 噛み捨てていく 次の場所
パリの警官がまたがる馬の尻とは 違う
たゆんだグレーの尻に荷をつないで
(あたしと同じ顔の男によろしく言ってね、
名前はヤコブ、デュッセルドルフにはひとりだけ、
ヤコブ、喉の奥をはじく破裂音
すぼめられた子音は 舌を
痺れさすくらい小刻みに
列車の中で口遊びして
ほどいた文字を結わき直すと
併走していた川から跳ねる
音階 ライン川にはライン川の
霧が撫でたら変調していく
花粉を運ぶものたちが去る季節
喉を爆ぜさせる名をしたすべての旅人たちが
荷を積んで降り立つ国境
ぶどうも凍る空気ごと
かたまりのまま もげそうで
窓越しに
まだ見ぬ開花のイメエジを
受けわたす
(次の春まで休んでおいで、
誰に?
ヤコブに。雌蕊の女の着地点。
あたしは、と言いかけて澱む わたしなら
探すことはしない
発されるたび 救いを求める迷い足を
いにしえから揃えてきた名
何度もあらわされてきた名を
指を離れた花粉が彩り
下げた窓から
霧がおおきく齧っていく
酒を飲む
僕はサラリーマンである前に
人間であって 父である
料理を並べる
あたしは主婦である前に
母であって 女である
スマホをいじる
俺は少年である前に
男であって 彼氏である
餌を待つ
オレ様はペットである前に
チワワであって 狼である
食べられる
私は照り焼きである前に
鰤であって 命である
今日もドラマの食卓は
料理が並び
家族が囲む
匂いが 温度が
混ざり合って
ささくれた
割り箸咥えて
テレビを見つめた、
何者でもない
何者にもなれて
何者にもなりたくない
そんなわたし
ツナ缶 ぽいっと 投げ捨てた。
3 Songs for Crying Valkyries――采目つるぎ
(ねぇ、今からボクが喋ること、全部覚えていてね?)
>blunderbuss
煮え切らない意図と
湿度を増す空間
繋げる術はない
時間が足りないことに
端を発した抽象
「勇敢なる後退
「千切ろう
思い出せなくなるまで
届かなくなるまで
「そうまでしていつも
骨まで取り憑いているのなら
号砲が鳴る
焼き直した記憶と
空の棺を窓に投げつけて
繰り返しを
断ち切りにゆく何度でも
>underground passage(nevermind)
「狼はいつだって
あたしの子宮を狙いにくる
魔除けのピアス、
浸み出した汚水の垂れる音、
「咲いてもいない花を
綺麗だと思うことはない。
螺子は変わらず
神経を繋いでくれるけれど
「澱みを取り込んでしまうのは
防げないみたい、
「狼は必ず狙いにくる
逃げる意味を疑え
「放電する、
「入口も出口も塞がってしまえば、
>アイネ。
内臓から砂になる感覚
少し前から爪先に触れている
倒れる場所もなくて
せめてもの抵抗で高架に
存在しないワイヤーを放つ、
貴女は濯ぎ落とす汚れも惜しくて
思うさま胸にべっとりと痕をつけた
「そのまま根を張れば良いよ、
あたしたちよりさらに弱いんだから
求めたのはそんな夢じゃなく
ただこの記憶から消えて欲しかっただけ
餌はもう腐りかけていて
「だから光に潰れても恨むこともしないの、
蝸室に於ける考察――黒崎水華
声を含んだ言葉を食べる美味しいとこなら舐め尽くす
音 音 音が吸い込まれてゆく
鳴くばかりの腹の虫
咀嚼する間もなく貪って
言葉を平らげてゆくだけの人生
紙魚に成りたいのではなく
言葉に成りたかった
泳ぎ回るだけの尾鰭を切り落として
根を張り巡らせ内側から腐り果て
醜いばかりの内情をそっと伏せ
線と点の交わる行間を探す
美しいだけの声なら要らない
魂が剥かれた玉葱に似て
薄く半透明に濁っているのは
(停止)を口にして居るからだ
液体は止まれば濁りゆくだけ
そうして死んでゆく
欲しいものなら全部書いてあげる」
彼女は彼の名前を知らない
彼は世界のすべてに溶けてしまった
自然と呼ばれる中に彼は居る(在る)
ドアを叩く音がするドアを叩く音がする
ドアを叩く音がする心を叩く音がする(心音)
それが詩と呼ばれる点線を縦に引き降ろす
行為そのものだとして
一体誰にそれが責められよう?
あなたも同罪だ
産まれて生きて息をして死ぬ
その線状の点です。
呼吸の様に置き去りにしてゆく
声は言葉、音となる
音は声、言葉となる
言葉は音、声となる
あなたの中で明確な答が応えた時
わたしはもうあなたの中でとけて
あなたになっているでしょう
(さよなら)さえ失くした
指先だけが冷たい鍵盤を叩く音が
わたしの最後の音であり
言葉であり 最初の声である
そうして開く門の奥、
あなたの闇が蝸室に巣食って居るのが視える
無機質さにひた隠した狂気を
情熱や理性だなんて嘯いて
わたしを(あなたを)解体してゆく
懐胎してゆくあなたを(わたしを)
崩壊する寸前
此処は安全だって嘘をつく
あおくてはやい風が吹いて、今
わたしはあなたの隣で
いつの日か替わる信号待っています
こんな夜に相まみえるなんて
ね
あおは日昏れと一緒に宇宙から垂るみ
高層ビルのいっしついっしつに注がれ
ついには足元を浸すほどになりました
だからこの信号機の小さな硝子の部屋に
あおが溜まるのを待ちつつ
あなたの隣でときを過ごしています
それはいつか溢れます さみしさや孤独
あるいはあなたの知らない なんらかの 色として
「こんばんは 知らないでしょうあなた
わたしのこと
さっきまであなたの後ろ姿を見ていたので
横顔を見るのははじめてです はじめまして
これからも知らないでしょうあなた
わたしのこと
わたしもあなたのこと知りません」
ね
誰もが誰ものことを
知ることができないことは
それは決して埋められぬ断絶として
わたしとあなた
あるいはあらゆるひとびとの
あいだにたっとく横たわって
います
それはもはやまるですごくまたとないような
ね
わたしはわたしを渡したいからわたしで
わたしはわたしを渡せないからわたしで
それはさみしいけれどすばらしいことだと
あなたの伸びた背筋とYシャツの張りと
あおくてはやい風が吹いて、今
夜道のそうびのような香りが
教えてくれました
その人は睫毛を羽搏かせるごとに
姿を変えて、
頬の紅さも目蓋の影も
すべてのときのすべてのものへ変化して、
それから
あおくあおくしゃんと透けていくのです
ひとびとのひと日を乗せた
コンビニのトラックが過ぎていくと
ときがあすの未明を迎えたはずみで
アスファルトが融けたように揺れました
あなたはわたしと同じ5センチ分だけ
あおくてはやい風にのって、今
宙に浮きあがって
都心の光を見ます
いちようにまばゆい光は
なんだかちょっとむなしくて
でもそれってとっても大勢の
ひとの姿であるということ
さようなら知らない人
わたしたちはどこかでまた
違う人の隣にきちんと立って いて
プラネタリウムについて 僕が知っていることは あれは偽物の星だ ということだけで
実のところ プラネタリウムの 真ん中には 野一面の 花が咲いていることなんて
知りもしなかった 景色がそっと 息を殺すと 僕の隣では 昨日セックスしたばかりの
カップルがいちゃついていて なぜそんなことを思ったのかと言うと 僕は昨日セックスをしなかったから
そういうことになるのだ
初老を迎えた とはいえ姿は見えないけれど とりあえずそのくらいの男性の声が プラネタリウムに響き渡る
なにを話しているのだろうか 耳を澄ます こんなところでしたくないよ 甘ったるい吐息が 漏れてくる
じゃなくて 初老を迎えた感じの男性が その声が 無言で 女の股を乱暴にまさぐる ではなくて
花を食べる バッファローの話をしている 花を食べる バッファローは もういないという
それは アメリカの夜空だった たぶん アメリカの片田舎で 花を食べる バッファロー達が
細々と暮らしている夜空だった アメリカの星空は 粘膜のこすれ合う音がする 一発の銃声がきこえる
いや気のせいだった それは隣の女の乳首が弾けた音だった アメリカの星空の ちょうど 蠍座に穴が空く
けどアメリカの星空は 蠍座なんてなくても オープンマインドだった
(蠍座なんてなくても) カップルの男が 女にささやく それが心地よい響きになって 女は股を広げる
花を食べる キスをする それが愛というものです 初老の男性が呟く 一発の銃声が聞こえる ちがう
正確には僕の脳みそを ひとつの鉛の塊が通過していく音だ ごにゅごにゅ とアメリカの星空の下で 僕の脳みそは1ポンド軽くなる
気が付くと すべての人が 花を食べている キスをする 初老の男性の声で 粘膜がこすれ始める
もうすぐ 夜が明けますよ そんな言葉を 僕はいつまでも待ち続けている
津波が空中で停止した海岸を
歩いたことがる
ビルのようにそそり立つ波の下をそぞろ歩くと
頭上で
白い波頭が日に照り映えていた
そのころ
私はあばら屋に住み
ガレージで犬を飼っていた
たぶんそれは犬だった
小さいときに拾ってきて
かなり大きくなるまで飼っていたが
一度もまともに顔を見たことがなかった
全身毛むくじゃらで
頭と尻の区別が無く
前にも後ろにも歩いた
餌をとる時も
どちらからでも食べた気がする
あのころ
氷は温かかった
町じゅうに林立する氷柱に手を触れると
ざらりとした質感と
妙に懐かしい生暖かさがあった
そして
一つ一つの氷柱の中には
風を切って歩く姿の
人間が閉じ込められていた
その昔
まだ蛹の頃
いぶかしげに座り込んだ子供が二羽の小鳥を見ていた頃
手足はひえてあかぎれて
腹はすいて背はやせて
それでも真中はときめいて
やたらと眠かった
あの日
雨の止んだ日
ながく使ったガラスのポットを割って
ごめんなさい
そう言ったけど
ほんとうはもっと遠いことをかんがえていた
虹が出ていたし
羽化だし
しりしりと膜が破れて
はみ出して
みんな小さく折りたたまれていたから
一目散に慎重にのびのびする
産毛がさわって
私は濡れている
それ以外は揺れている
やたらとまぶしく
うるわしく
こぽこぽと
トゥウ ユウ
犬が鳴いている
一っ子ひとりもいない しかし鳴いている
蟻すら行列を作っていないというのに
私は錯覚した 私が人なのかと
私は錯覚した 私が蟻の進行を止めているのかと
答えは二つに一つだ 私は錯覚した
のはらを猫が駆けている 猛獣だらけの道の真ん中で
迷い込んだのか 元々そこにいたのか
一周まわったばかりの私には 一周むかしの事を思い出せない
すべての人生も きっとそんなものだろう
とおい昔の親友は今も元気でいるだろうか
ずっと遠くの反対側で 同じことを考えていたとしたら
大都会をぬけて 私は平野にやってきた
私を見る目もいなくなった
すがすがしい しかしさびしい
小鳥の一羽もいないのか
雑草も風に揺れないのか
夏の猛暑が原因か 冬もねむってしまうのに
久々の親友と再会した
語る時間は少なかった 語れる話題も尽きていた
はなれる直前 あつさと さむさが 混じり合う
私は錯覚した 私は月じゃないかと
一周まわって、私は夜を照らせるようになったのかと
答えは一つだけだ 私は太陽だ
私は散歩に行ったとき
いいな、と思った風景は写真に収める
群青の空に光を浴びた清々しい山々
白練のそば畑と黄金の田んぼが織りなす絨毯
そして
とん、と胸をうつ生き物たちも
大きな葉にたたずむかえる
枯れた雑草に群がるとんぼ
小川の淵を上るかまきり
私はこうして
日々の思い出を切り取って保管しおくのだ
そして後から取り出して
過去の中から引っ張り出した記憶と混ぜて
風味を感じ、甘いお菓子のように貪るのだ
でも
撮った写真を見返すと
心に妙なひっかかりができる
同じ物を見たはずなのに
そのまま切り取ってきたはずなのに
こんな風景だったろうか?
こんな印象だったろうか?
私はこのとき、何を思っていたのだ?
散歩に行った証拠は残しても
その証拠の中に私は入っていなかった
写真は
いかに正確に風景を切り取ろうとも
そのときの感動までは切り取れない
だって、風景を見て感動しても
その感動は風景だけじゃ語れないでしょう?
そういうとき
私は詩を書くことに決めている
たとえ言葉はつたなくとも
たとえ感動を言い尽くせなくとも
心から出てくる言葉を連ねたら
そうしてできた詩というのは
そのときだけの思い出にとどまらない
後になって詩を見返して
そのときの感動と
そのときの私自身を
過去からいざなってくるのだ
そしてそのときの
ちょっとした鼻唄とか
たそがれたい気分とか
将来への不安とか
誰にも話したことのない
自分の中で温めつづけている夢までも
心の中で包み込んで
ゆっくりと抱いてやるのだ
そうして彩っていく人生を
ゆったりと楽しんでいけば
いつか、幸せになれるような気がするのだ
イットロベーガ ヒッツイタ イットロベーガ ヒッツイタ
風が吹く 草むらをいく
母親が 老婆になって
イットロベーガ ヒッツイタを口にだす
蛇口しかない部屋に住んでいる母親の
服に、口に、イットロベーガ ヒッツイタ
そして、その日、気分屋になっている老女
そして、それから、天気予報をかきあつめようとする老女
イットロベーガ ヒッツイタ イットロベーガ ヒッツイタ
イットロベーは とれないよ イットロベーは めんどうだ
秋がくっついて、オ腹ト背中ガ・・・
お腹は忘れている、背中は曲がっている
幼児をさわる 幼児をなでる 三輪車に乗せてやる
ああ、老婆には、サドルという言葉は もうなく、
とにかく、「スワル・トコロ」「スワル・トコロ」と繰りかえす
スワルトコロにおさまって、すすませる、秋をすすむ
車輪のまわるのに腰をあわせている老婆と、ペダルに足が、
ついたり はなれたり
ソレジャア イケンガ ソレデ エエンジャガ
そこだけが、しっかりとした声 そこだけに、しっとりとした声
母サン ボクノモ コウシテ 押シテクレタンデスネ
ぼくの幼年がいう、足首が幼年になる
空ガ 見エナクナルクライニ ワタシヲ ツカンデクダサイ
ドウシテ白濁ノ オシロイヲ 塗ッテイルノデスカ
「しづかに彼の耳に聞こえてきたのは、それは谺になつた彼の叫声であつたのか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。」
画素が減ってゆき 風景が ゆすられ
じゃねる じゃねる ねこじゃらし
車輪は通過する、小さな目は欲しがっているのに
イットロベーガ ヒッツイタ イットロベーガ ヒッツイタ
そっと、折り紙のカタチを 皺が出す
ソレハ ナニ
やがて ぬっくりと 道なりをくねって坂道を上がり、
やがて 羽根の人がやって来て、やがて 蛇口のに送る
背をさすり、白髪に手をとおし、
イットロベーを 指先でとって、あげる・・・あげる
イットロベーガ ヒッツイタ イットロベーガ ヒッツイタ
*詩の中の引用(「しづかに彼の耳に・・・」)は、三好達治『測量船』より
【選評】
☆2017年10月~12月までの作品の中で 八木幹夫選
【入選】(二作品共に評価)
時間の捉え方、自分の空間の処理の仕方がとても巧みだ。ただ、望むのは具象の世界に身を位置付けることで、より鮮明になるはずのものがある。平明に書くことで失われてしまうものが本当にあるのかどうか。今があなたにとって最も大切な時だ。沢山書き続けよ。
千年流し――橘 麻巳子
故郷までの道程を
象っていた ぶれのない縮小模型
縮尺どおりのぬかるみも
「郷の道から持ってきた」
それなら、帰ってくればよかったのに
「帰ってしまったら、
ふたたび帰る場所が無くなる」 そうか、
故郷は過去の一点ではなく、
回帰の歩みをつづける理由か
始めの位置を周回している 今ではきっと
性質で
臓腑に落とす一滴ずつの記憶
水銀の質感で
ゆれるおもてを目立たせる 変容のしるし
転んで ついた手形も残らぬ
流れ着いたものたち
遡れば、なにかの一部だったもの たとえば
乾いた甲羅 裏返ったまま
苦痛あきらかにする声に
ゆれ、
眼の奥に寄せる波は
海のない街にも 朝から朝を運んで
漂流物を嵌めたステンドグラスはおおきく
おおきく作られて あまりにも
おおきくなった導きに
生きない者の声まで響く
ここでも 息 なくしてしまった人がいる
(身体なんて、)違う
身体こそ おろそかにしない
蝋燭かざすてのひらは生まれたて
やわらかな指先 まるめて
甲羅に嵌めていた 変温動物のジェスチャー
温度持ちはじめる不在に
示してほしい 水中での吸い吐き、
仲間を呼ぶとき使う囁き、
それらの波動が水面をゆらし
ずっと昔だ 似た季節にもこうやって
向こう岸に渡れなかった仲間の匂いが
苔生して
時の流れが散らした事象の
区切りの隔たり取り去り 束ねて
納得の流れ切りひらく水路に
別れを告げる人物 浮かべて
一束にし、模型に吊るす
以外のものは明日 きっと
郷の土から生え出でてくる
国境――橘 麻巳子
車輪の割れた旅行鞄に掛けられた
指は黄色く わたしの頬より
(あたしたちは運ぶことに慣れてる、
雌蕊みたいにつややかな鼻が
近くまで寄る 噛み煙草の甘さだ
かろやかに 噛み捨てていく 次の場所
パリの警官がまたがる馬の尻とは 違う
たゆんだグレーの尻に荷をつないで
(あたしと同じ顔の男によろしく言ってね、
名前はヤコブ、デュッセルドルフにはひとりだけ、
ヤコブ、喉の奥をはじく破裂音
すぼめられた子音は 舌を
痺れさすくらい小刻みに
列車の中で口遊びして
ほどいた文字を結わき直すと
併走していた川から跳ねる
音階 ライン川にはライン川の
霧が撫でたら変調していく
花粉を運ぶものたちが去る季節
喉を爆ぜさせる名をしたすべての旅人たちが
荷を積んで降り立つ国境
ぶどうも凍る空気ごと
かたまりのまま もげそうで
窓越しに
まだ見ぬ開花のイメエジを
受けわたす
(次の春まで休んでおいで、
誰に?
ヤコブに。雌蕊の女の着地点。
あたしは、と言いかけて澱む わたしなら
探すことはしない
発されるたび 救いを求める迷い足を
いにしえから揃えてきた名
何度もあらわされてきた名を
指を離れた花粉が彩り
下げた窓から
霧がおおきく齧っていく
【入選】
視点の面白さ。どこかに関節はずしのような滑稽と「ツナ缶 ぽいっと 投げ捨てた。」の一行にこの作者のしたたかな人間観察が出ている。
家族の食卓――河 うそ子
酒を飲む
僕はサラリーマンである前に
人間であって 父である
料理を並べる
あたしは主婦である前に
母であって 女である
スマホをいじる
俺は少年である前に
男であって 彼氏である
餌を待つ
オレ様はペットである前に
チワワであって 狼である
食べられる
私は照り焼きである前に
鰤であって 命である
今日もドラマの食卓は
料理が並び
家族が囲む
匂いが 温度が
混ざり合って
ささくれた
割り箸咥えて
テレビを見つめた、
何者でもない
何者にもなれて
何者にもなりたくない
そんなわたし
ツナ缶 ぽいっと 投げ捨てた。
【佳作】
今回の作はやや中途半端。辛辣な表現がリアリティーを持ち得ているかどうかを考えて欲しい。ただ他の作品よりは魅力がある。
わらう母たち―― 田中修子
お線香から煙が巻くよ
からっぽの少女のお城の中に
あなたはただ、さみしがりの少女だった
そのさみしさが
わたしを縊って切り刻んだ
赤く燃えるフォーク かじった爪のにおいね
錆びだらけのマチバリ つきぬける皮ふから皮ふ
灼けるアルコールはね あふれる乳みたいにね
夜にひびが入り冬匂う月は
真っしろしろ
かじかんだ指組んで
目を細め
おとうさんはもうあなたのことを忘れました
また永遠のお姫様をさがしています
おにいちゃんは地獄に落ちるのを怯えているわ
お釈迦さまの乳房をすすっています
クスクスクス男たち
傷というわたし
あなたそのもの
お線香の煙は雲となって
優しく冷えた雨は落ち
伏せたわたしの瞼から
コロコロ澄んでころがるのでした
あらまぁ
受精卵
うんどこうか
クスクスクス女の子たち女たち
ひび割れた唇の皮を剥いてうすく滲む
母たち
【佳作】
(この作品は以前にも見たことがあるような気がしましたが改作して送ってきたのかしら。)
わがままな水――右田洋一郎
佇んでいる。
びたりとも動かない水だ。
この夏、そんな水を見た。
早朝、いつものように堤防道路をのったりと散歩している時だった。ぼくは、不意に気づいたのだ。音がしない! いつもの音がしない(あれっ、いつもの音ってどんな音だったっけ?)
川を見た。
青鷺が一羽、過去と未来が激しく交差して渦を巻く川の中央にすっくと佇んで、水を見据えていた。ここまでは、日常の風景だ。彼(あるいは彼女)が一心に見つめる水面に視線を移して仰天した。
水が流れていない! 過去も未来も凝固している。
そんな馬鹿な、と目を擦ってもう一度視線をこらした。
やはり、動いていない。道理で静かなはずだ、とすんなりとは納得いかない。平素から常識人をもって任じているぼくとしては、どうしてもこの現実を受け入れることはできない。
その時、そより、と風が吹いた。
上空から聞き馴染んだトンビの啼き声が降ってきた。見上げると、大きな影が悠然と滑空している。
視線を川に戻した途端、青鷺が飛び立ち、川が音をたてて流れ始めた。
飛び立った青鷺の嘴には、過去という魚がしっかりとくわえられていた。
☆Eureka――石田 瑞穂
本欄選評も、いよいよ後半にさしかかろうとしている。
こうして、詩作品を募ってみると、出逢いたい新詩人たち、かくれた才能はどんなときも、どこかにいるものだな、と感歎するほかない。
そんなおり、東京青山の古書店の棚で、あの、なんとも筆舌につくせない、淡い黄色のカヴァーにくるまれた西脇順三郎の『詩論集 梨の女』をみつけた。すでに一冊、自宅の書架にあるのだが、つい、購入。むかしの梨は、たしかに、こんな色をしていたなあ。そう思い、いきつけの喫茶店の飴色に艶光るカウンターで、紙魚の泳ぐページをいそいそとめくると、
詩は実感ではない、併し今日の詩はシムボルということを考えない。
という、西脇節、あのおなじみの喝破があらわれた。「シムボル」すなわち、象徴。「抒情詩を読むと肺病になる」とも書いた西脇順三郎。前回、ぼくは、詩にとってのモノ、此性というか、詩のハードコアについて書こうとした。でも、ちょっと、歩みをもどすべきかもしれない(詩のハードコアについては、二月以降刊行の『詩と思想』、および『早稲田文学』に掲載予定の中編論考でふれましたので、機会があればお読みください)。
なぜなら、昭和三〇年に刊行された本の、雷光のごとき一行は、いまだ「今日の詩」を照らしてもい、今期の投稿作品の大半も「実感」の詩だったから。ぼくは、切実な実感から生まれる詩を、否定しない。実感の名詩だって、ある。けれども、じつは、実感ではじまり実感で完結している行は、詩ではなく、エッセイなのだ。だから、読んでみても、詩を感じない場合がおおい。
無論、象徴詩を書いてほしいというのではない。西脇順三郎のいう「象徴」は、一般修辞学の一項目ではない。それは結果的に、西脇の詩作品と膨大な文学研究によって改造と刷新をかさね、創成された、特異な詩的概念だった。西脇は象徴を「永遠、自我を果てしなく遠ざかって隔たる存在がかすかに感覚させる淋しさ」(同書)とのべる。象徴は西脇が発見した詩の核心であり、後年の読者からみれば、地球上の諸存在・諸生物と新たな関係性をきずくための、すぐれたヒント、他者の詩学を問う概念でもある。
このように、詩作するとは、詩を発見する創造でもある。だから、ぼくじしんが本欄において感銘をうけ、思わず知らず、ユーリカ!とえらんでしまうのは、ウェルメイドの詩ではない。いまだかつてなかったポエジーを、発見させてくれる詩だ。
その意味で、今期も三回目の選評となると、いよいよ、新たな詩人たちが存在感をいやましにましてきた。
采目つるぎさんは投稿をかさねながら、着実に詩想と技倆を深化せている。しかも、既存の詩にはない、未知のオリジナリティと力がやどりはじめているのだ。特選。すこし、ながめに引用します。
3 Songs for Crying Valkyries
(ねぇ、今からボクが喋ること、全部覚えていてね?)
>blunderbuss
煮え切らない意図と
湿度を増す空間
繋げる術はない
時間が足りないことに
端を発した抽象
「勇敢なる後退
「千切ろう
思い出せなくなるまで
届かなくなるまで
「そうまでしていつも
骨まで取り憑いているのなら
号砲が鳴る
焼き直した記憶と
空の棺を窓に投げつけて
繰り返しを
断ち切りにゆく何度でも
>underground passage(nevermind)
「狼はいつだって
あたしの子宮を狙いにくる
魔除けのピアス、
浸み出した汚水の垂れる音、
「咲いてもいない花を
綺麗だと思うことはない。
螺子は変わらず
神経を繋いでくれるけれど
「澱みを取り込んでしまうのは
防げないみたい、
「狼は必ず狙いにくる
逃げる意味を疑え
「放電する、
「入口も出口も塞がってしまえば、
本作「3 Songs for Crying Valkyries」は、既存の詩の美学、主題、意味内容から逃走を果たすのみならず、現代のディスコミュニケーションが、ディスコミュニケーションのまま言葉に受胎しつつある。それでいて、詩の言葉に、バリケードや閉鎖がない。言葉の身体が内外へ開放されていながらも、引き裂かれてい、どこにもとどかないコミュニケーションであること。こんな詩は、なまなかの詩人では書けない。采目さんは、これまでに投稿歴や受賞歴のない新たな書き手らしいが、今後も、ぜひ書き、鍛錬しつづけてほしい。
黒崎水華さんの「蝸室に於ける考察」も、詩の未知の領域を予感させてやまない。詩を書くことを行為の内部から、自己言及的に追究した緊張感あふれる作品だ。黒崎さんのこれまでの全投稿詩は、連作詩としても読める。超現実のイメージをちりばめつつ感覚の現実を前面におしだし、冷ややかで硬質な詩語をまといながら、その詩想はたえず流動してとらまえがたい。
あなたの中で明確な答が応えた時
わたしはもうあなたの中でとけて
あなたになっているでしょう
(さよなら)さえ失くした
指先だけが冷たい鍵盤を叩く音が
わたしの最後の音であり
言葉であり 最初の声である
そうして開く門の奥、
あなたの闇が蝸室に巣食って居るのが視える
詩の書記行為をみつめる視線(ときには聴覚)と、みつめられる書記行為の視線がエロティックなまでに溶けあう瞬間、詩を書く主観世界は霧散する。双つの内部観測は、主体と客体、純粋と肉欲、愛と憎悪、生と死に烈しく仮構され、引き裂かれてもゆく。ペンを手にした瞬間に終焉する書くことの運命。詩人はその運命が必然にかわる転瞬を、ただひたすら夢見て待つかのようだ。その、受苦さえも夢見つつ。黒崎さんの詩的実験は、まさしく、詩のオートポイエーシス(自己生成系)とよぶにふさわしい。
橘麻巳子さんの「千年流し」も、魅力的な作品だった。あたらしい詩語の呼吸のうちに、会田綱雄を思わせるフォークロアを沈めて、詩風に厚みと奥行がました。
故郷までの道程を
象っていた ぶれのない縮小模型
縮尺どおりのぬかるみも
「郷の道から持ってきた」
それなら、帰ってくればよかったのに
「帰ってしまったら、
ふたたび帰る場所が無くなる」 そうか、
故郷は過去の一点ではなく、
回帰の歩みをつづける理由か
始めの位置を周回している 今ではきっと
性質で
臓腑に落とす一滴ずつの記憶
水銀の質感で
ゆれるおもてを目立たせる 変容のしるし
転んで ついた手形も残らぬ
民俗や伝説を題材にしながら、いまのぼくらにもかすかに残滓するいにしえの生と、現代の表層的な生が、拮抗しつつ渾融するすがたをうきあがらせた。
若き才能ということで記すと、今回が初投稿だろうか、渡辺春夫さんの「あおくてはやい風が吹いて」は、さきの采目さんとは真逆で、だれともつながれない灰色の都市をみすえながら、瑞々しく清新な抒情によって都会の諦念をゆりおこそうとする。
わたしはわたしを渡したいからわたしで
わたしはわたしを渡せないからわたしで
それはさみしいけれどすばらしいことだと
あなたの伸びた背筋とYシャツの張りと
あおくてはやい風が吹いて、今
夜道のそうびのような香りが
教えてくれました
その人は睫毛を羽搏かせるごとに
姿を変えて、
頬の紅さも目蓋の影も
すべてのときのすべてのものへ変化して、
それから
あおくあおくしゃんと透けていくのです
ひらがなを効果的に用いて、手紙ことばのような、なかなか巧い語り口だと思う。詩語が、路ゆく肩や腕のあいまをやわらに吹きすぎる、透明な風になる。けだし、感性だけで書かれてはいまい。柔軟な思考でよく練られた構築の、すぐれた青春詩だ。宛先のない世界で、その言葉の風は、いまへとふれあう、かそけき宛先をさがしもとめている。青春、というには、言葉が、私からも他者からも怜悧に間隔をおかれていよう。それでも、どこか、この若い詩人の言葉には生への凛とした信頼がある。その清新なペンに期待したい。
芦野夕狩さんの「プラネタリウムについて」は、ゆるやかで美しい言葉のビートとムードがセンスよく効いていて印象にのこった。
初老を迎えた とはいえ姿は見えないけれど とりあえずそのくらいの男性の声が プラネタリウムに響き渡る
なにを話しているのだろうか 耳を澄ます こんなところでしたくないよ 甘ったるい吐息が 漏れてくる
じゃなくて 初老を迎えた感じの男性が その声が 無言で 女の股を乱暴にまさぐる ではなくて
花を食べる バッファローの話をしている 花を食べる バッファローは もういないという
なんということもないスケッチだけれど、妙にじわじわ、哀切な笑いがこみあげてくる。間合いが絶妙。こういう、肩のこらない詩も、いいですね。ライトヴァースながら、実感の詩からもちょっと遠く、現実と意味のハードルをとびこえる詩的な問いかけが、ちくちく刺さってきた。いつも、日常に超現実の小穴をさがしていた、サンフランシスコ・ルネッサンスの詩人、ジャック・スパイサーの短詩を思いおこしました。
詩集もあり、受賞歴もある、みご なごみさんの泣かせる「イットロベーガ ヒッツイタ」や、右田洋一郎さんの「GRADUATION」は、名詩というほかありません。
若い世代では、初投稿の橙兄弟さん「銃声が鳴った」、常連の発条ねりさすさん「まひるの平野」、冬川遊花さん「いなくても」が、いきおいのある詩に思えた。意味や構築にとらわれず、書きたいことをそのまま言葉の弾丸としてキーボードに打ちこんでいった、そんな生々しいドライヴ感があって、じつに、きらきらしていましたよ。
☆選評――杉本真維子
畑中しんぞう「津波」
珠望「誕生日」
発条ねりさす「まひるの平野」
石澤 紀「詩のすすめ」
みごなごみ「「イットロベーガ ヒッツイタ」」
畑中しんぞう「津波」
いま何を読んだのか、と衝撃をうけた一方で、わたしという人間が存在し、対象そのものに入れないということを言葉にするとしたら、こういう書き方になる、と腑に落ちるものがあった。――「全身毛むくじゃらで/頭と尻の区別が無く/前にも後ろにも歩いた/餌をとる時も/どちらからでも食べた気がする」。これは識別的にはたしかに犬なのだろうと信じられる。そして、この犬以外のものから犬を見たときに、およそ犬とは考えられぬ様相で現れる。氷柱に閉じ込めれている人間も然り。その混沌と恐怖を鮮やかに提示した。
珠望「誕生日」
指し示す「とき」を二度言い換えることで、言葉のずれが層になってゆらめき、無名の感情に名前をつけている。幼年時代、「ながく使ったガラスのポットを割って」謝ったことが私にもあり、ときめいている「真中」にも覚えがある。注目すべきは、たとえこれらの経験が私になかったとしても、ある種の普遍的な経験が詩の舞台に乗せられていると感じられるところだ。
発条ねりさす「まひるの平野」
太陽からの視点で、公転する地球が見られ、映され、書かれている。川のなかの石の視点で、流水を眺めるような不動の感覚なら珍しくないかもしれないが、太陽という大きなものを自らの視座にできる肝の据わり具合がこの書き手の強みだ。その分、目というカメラはつねに書き手の側にあり、自らが撮られるという外側からの視点が存在しないが、この「欠け」こそが、特有のダイナミズムを成立させている。さらに、太陽の視力の過信に釘を差すように、錯覚という言葉でゆさぶりをかける。このまま書いていってほしい。
石澤 紀「詩のすすめ」
17歳の高校生の作品。この初が詩の原点を示すようで、とくに最終行「いつか、幸せになれる気がするのだ」では目の覚める思いがした。たしかにこんな予感に突き動かされ、私たちは詩を書き始めたのではなかったか。心の衣を脱いではじめて掬いあげられる言葉だ。詩の書き始めは多弁に飾りたてようとする人が多いなか、ひたすら正直であろうとする心の構え方に詩のセンスのようなものを感じた。
みごなごみ「イットロベーガ ヒッツイタ」
書かれている内容そのものに、新しく出会った何かがあるわけではたぶんないが、「イットロベーガ ヒッツイタ」というリズムが頭から離れない。このリズムが示す気分はどこか壊れながらも安定を保ち、ペダルを漕ぐように動きを止めず、老婆になった「母親」と「ぼく」さえ追い越して、どこまでも続くかのようだ。このリズムに生を回収されても構わないというくらいの意思が、残酷な個々の変化から、変わらない「母親」と「ぼく」を掬いとっている。詩を書くことで見つける個的な光を思った。