日本現代詩人会 詩投稿作品 第31期(2023年10月―12月)
厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。
■北原千代選
【入選】
石川順一「パレード」
末野葉「十年前」
なとふむら「鳩がいた」
柿沼オヘロ「浜辺にひとつ」
南久子「彼岸を過ぎた頃になると」
【佳作】
泉水雄矢「粉雪」
梶本堂夏「脚をわすれた夜の独唱」
nostalghia「寒いパレード」
たいち「Cho」
古野千尋「蝶々」
■根本正午選
【入選】
nostalghia「〈レタレタ〉」
高橋克知「【とるまたうた】で待っている。」
柿沼オヘロ「浜辺にひとつ」
古野千尋「夜想曲「オルガン付き」
末野葉「十年前」
【佳作】
未来の味蕾「Je t’aime(ジュテーム)」
たいち「Cho」
桃山ほくろ「皮肉」
泉水雄矢「小川の石」
田中綾乃「解」
■渡辺めぐみ選
【入選】
愛繕夢久「魔法使い」
青山誠「みずいろ」
酒井花織「一羽の鳩への憐れみの行方」
青縞蒼「扉」
吉岡幸一「歓声」
【佳作】
中島隆志「夕涼み」
倉丸仄歌「円山散歩」
芦川和樹「フロッグが佇「ヌ」」
梓凛斗「世知辛いなぁ」
梶本堂夏「季節に取り憑かれた都市」
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少女は頭にリボンを付けて
パレードを見ながら
オフを楽しんでいた
少年少女は
保育園や幼稚園に通うのが
仕事みたいなものだから
日曜日ぐらい
パレードのような娯楽が有ってもいい
大きく化けるかもしれないよ
風が歌っている
草がなびいて
穂と穂をぶつけ合っている
私は彼らを観察しながら
未来日記を執筆していた
風で折れ曲がる紙の淵
読むたびに出来る紙の皺
畑で耕して来た手を忘れていた
紙の端が土で汚れて色が付く
根粒菌が居るから
窒素肥料はあまりいらないか
意識がパレードや
少年少女から何度も逸れては
風の行方だけが自我を占領している
この自動車通行が禁止された公道に
パレードの終わりを告げる
監察官の笛が鳴り響く頃には
私はステーキ弁当を食べていた
うぶ毛の生えた
白い砂漠に
一本まっすぐ通る
薄い皮膚の膜がはる傷跡
それを辿る旅の一行は
子音の多い言語で喋るが
互いに相手の音を聴き取れない
シッ シュクチ クツ ツキ
シッ シュチ チクッ ツキ
それでも相手の音を繰り返す
わたしたちはわかり合う
あなたの言うことがわかった
あなたの言うことがわかった
わずかに異なる音で反復する
わたしたちはわかり合う
トッガッパコン トッパコガコン
子音の森の奥で太鼓が鳴る
トトンガッポコ トッコガコポン
腹に響くので 私は寝返りをうつ
ステップを踏む人の手を取ると
その手にも太鼓のリズムが響いている
おーうう あうう 強い風
ちがう、低い声
そしてだんだん歌になっていく
体力がありましたね
七時間の大手術でした
きれいに取り除けました
光っていました
力あるものでした
倒れないものなどありません
しかし立ち上がれないものも在りません
あなたは大丈夫 と言って歌ははじめに戻る
太鼓のリズムのような手をした人と
ゆっくりステップを踏み
もう片方の手を泳がせて
別の人と手をつなぎ
低い声でわたしたちは歌う 踊る
傷跡の線はいつの間にか円を描く
旅の一行は目的地に着かない
しかしわたしたちはコーラル色の膜を
思い思いのステップで踏み鳴らし
日が暮れたら夜営をして
話したいことを話す
君の目に映る僕は誠実でいたいと願う
あの日、しまい忘れた後悔を持っていく
「駅に着いた」
クックルクックル
「鳩がいた」
灰色の胴体からオレンジ色の目にかけて
美しい紫色と青色の珊瑚礁が横たわる
ところでサンゴショウと言ったら、
宝石を積んで海に沈めたような、
あの珊瑚礁を思い出すけれど、
実は見たことがない
漣が足の指の間の砂をさらい
夕日が海面にオレンジ色のカーペットを敷く
私は海を歩けないから代わりに船を作る
落ちていた時計の盤をつなぎ合わせて、針をオールがわりに漕ぐ
ゆっくりとゆっくりと
ようやく沖に出た時は壇上に上がって
星たちのカーテンコールで朝を迎える
そんな海にもいったことがない
「電車がきた」
乗る人もいない単線電車は一両で到着する
私はその一部屋さえも上手く使えなくって
次の駅で降りてしまった
電車が線路を掴んで遠くへ行く音だけが聞こえる
目の前には鳩がいた
針のように細くなった君の目を誰が咎めることができようか
原因は全て僕にある
きっともう、戻れないのだろう
あちらに向かう
波のふちどりは白く
あちらから来る波のふちどりは
雲を削ってきたように白く
そうして掠れた空からは
すくみ上がるほど
静かな日ざしがある
浜辺のふちに
かたむく勉強机がある
ひきだしの中の砂じんに
砂じんの中のひと粒がある
ひと粒のすこし平たいところに
赤と黄いろのパラソルを打つ
子どもがある
鋭いものを 打ちつける
パラソルの下に
影をまとった屋根がある
影でふくらんだ
ひとつの家がある
土踏まずの境界を
砂が ぼかしている
土いろの波で洗い流し
土と化した砂でまた汚れ
土と化してきそうな朽ち木ですこし
切った
痛みと砂の見分けを 血がつけた
あちらに向かう波のふちどりは
ガラスを破ってきたように 白く
そうして割られる日ざしがあった
ひきだしの中に
海いろの水たまりがある
砂ひとつぶんだけ どうかしてしまった
子どもがある
土踏まずの境界に
閉じたままのパラソルを ひとつ
深く深く打ち込んでいる
ひとつ ひとつ それで保たれる
太陽があたると
汗が流れ
拭うために傾くことがある
北風が吹き荒れると
首をすくめることもある
ときどき姿勢を正す
神さまが見ているからというのはちがう
イソップ童話になじめなかったのとはもっとちがう
死ななかったのはぜんぜんセーフ
歓喜して立ち止まる
花びらがひらくと
実がこぼれて
十五夜にお月見団子をたべる
ことばがつながると
まもられているのが肌をつたう
いっしょに夢を見る
あこがれつづけるのはいや
尖って転がるのはもっといや
託するものが見つけられなくてもぎりぎりセーフ
納得して横たわる
車のかげでさわぎすぎて
リコリスはさびしく
ネジバナよりはげしく上を向く
ゆっくりと左右にはみ出して
水引に似る
ありがたくお辞儀する
毒を抜く手に触れるのはこわい
摘んで帰って生けるのはもっとこわい
帰り道やさしく角を曲がるのはただただセーフ
意思を持ってつぶやく
だからこうしてちゃんとそうしてる
私の魂なら70番街にころがっている
私だけじゃない
生き物も死に者も
まんべんなく路上にある
貝をひろうようにストリートを下ってみてほしい。
〈模様の入った石はすべて惑星だ。
すべて惑星の素質で転がっている〉
そして〈レタレタ〉と
ある死者がそう呼んだのは誰から聞いたのだったか
ころころと道を行き来する私たちは
あるとき、ふと、発見される
魂の魂が、影のなかの影として
そこにあることを認められる
それからじっくりと目を擦り、名付けられるまでの仮定として
〈レタレタ〉と。
ころころと、私たちの、
百年をお見せしよう
鼻も口も耳ももたない芋みたいな魂たちが
削られた形の不思議さで
君に何かを示すことはできるだろう。
〈レタレタ〉
子どものような舌ったらずさで
子どものように、私たちを訪ねてみてくれ。
【とるまたうた】で待っている。網膜。どっと沸騰する羽釜の飯。
ざあああん。ざざん。喧しい火の雨が、激しくピアノを叩くように
野薔薇の生い茂る廃虚の庭先へ、降りそそいでいました──、
《alter》
雨。座敷の明るい疆域に落とした影から、頽廃がしのび寄る。木曜
日、FM放送のシュトニケに祈りの声が彫琢されて、少女の写真。
波佐見焼きの皿には赤い煮魚、御椀に盛られた石榴、竹ザルの上の
トマトを、嬉しそうに黙すのは、はんたまるやの静かな美徳。
──灯明。おじい様は跪き、手向けた線香に合掌しています。
少女の視線、に向かってなつかしそうにとなえては、銀食器の閃光
に薙ぎはらわれた軒先の、巨大な雲の記憶を見つめています、
《past》
せいこちゃんが見舞いにきました。風邪気味の少年は耶蘇様の魚の
マークを大切にしています、ろおれんぞのように大切にする。瓦屋
根の一軒家、赤い瓦礫になる前の土間の竈脇の、僅かに残る熾火に
喪われた日々が思い煮詰められ、時の時を行きつ戻りつ。
空にむかってくるすをつくると、飛行機が横切りました。剥き出し
のジェラルミンは、ぢやぼのようにヌラリと銀色に瞬いています。
動きだした自転車「まって!」とせいこちゃんをよびとめたその瞬
【どおおおおおん】
少年は、おじい様だった。雨と影が重なる。いつしかおじい様は、
フェンスに囲われ、荒廃した旧家の前に佇んでいたのです。
《di al ogue》
雨。せいこちゃんの写真とおじい様は、【とるまたうた】の火焔を
交換する族長たちのように、向かい合わせの失地に座っています。
ハルレヤ。声にせずおじい様は、空っぽの瞳の奥で、あるかんじよ
のように、優しく微笑みかけています。
──耳の後ろで、グランドピアノのような、遠い雷の音が転がる。
偏詐な心の深くに閉ざした、疚しさが疼き始める。あどけない視線
に、いつまでも見つめられているのを、何も気づいていないように
生き続けて──累々と横たわる黒い影、群れをなして救護所を探す
幽鬼の行進、焼け跡の炊事場に残った釜の黒い飯、溶けた自転車、
──あのこは、
その瞬間まで生きていたのです、
【せいこちゃあん──! せ い こ ちゃ あ ん──!】
《purgatory》
──鉄門の前で水銀灯のように揺らう人の形
を模した、あにま まぶしい光の雲の下、
迎える者のいない荒野に吹き荒れる
野薔薇の香り、降りそそぐ雨の
陰で追放された、燃え盛る、
憎しみの 熾火 囁く
ように耳の、奥で
やさしく鳴り
響くおらとりおは
懐かしい、
ざああ あん、
ざざ ん、
今も
胸の奥でくるおしく、
音階をのぼるようにくるおしく騒ぐ
伽藍の内奥で やけこげた銀のしんぞお。
ふりむけば火の
海がおってくる──、
冬は南極の夜のやうに。
あの爪は心の傷に引っかかります。
それは南の星座を真っ二つにして
それは硝子の弦をはじいて揺らし
あのてらてらとやはらかく輝く
光の絹をかき乱します。
それは液体です。呼吸する玉色の水です。
それはまるでカーテンを濡らす薄暮の断面です。
私にはもうそれをきちんと貯めておく瓶が
残念ながら残っていません。
溢れて割れて溶けてしまいました。
それが夜の暗いところへ逃げていって
通りすがりに誰かを傷つけやしないかと
私は不安でたまりません。
みなさん、鏡を磨いて逃げませう。
潤んだ瞳がもっともやさしくものを眺めますから。
珊瑚のような星の下
みなさん、どうか振り向かないで。
夜の闇はオルガンの低音です。
ごうごう震える橋のこちら側で
すべての憂いや哀しみは
私がこの小さなポケットに
こうして一生懸命に閉じ込めておきますから。
どうかみなさん前だけご覧になって
明日はちょっとおどけて歩いてみたり
それは紫陽花のような傘をさして
どうかあの猫にもふかぶかとお辞儀をして
私からよろしく伝えてください。
ある日、魔法使いがこの町にやって来た。
みんなは変わった格好をした変わった人だと、
それくらいに思っていた。
ある日、その人がホウキで空を飛んでいた。
みんなは新型のドローンだと思っていた。
通行人からの通報で警察官が来て、
ここは飛行禁止区域だと注意を受け、
今後一切飛行しませんと、
誓約書を書かされ罰金まで取られていた。
ある日、病気で死にそうな人に、
その人は自分で作った薬を飲ませて命を助けた。
病院からの通報で警察官が来て、
その人を薬事法違反の罪で逮捕した。
裁判で有罪になったが保釈金を払って出てきた。
勿論もう薬は作りませんと誓約書は書かされている。
ある日、子供が車に轢かれそうになった時、
その人は呪文で車を止めたが、その弾みで車の前が潰れた。
ドライバーの通報で警察官が来て器物損壊の罪で逮捕された。
裁判で人命救助が認められた。
釈放されたが呪文を使わないという誓約書を書かされた。
ある日、みんなが困っていた。
物価が高くて食べ物が買えないと嘆いていた。
その人は魔法で食べ物を出して、みんなに分け与えた。
商店街からの通報で警察官が来て、営業妨害の罪で逮捕された。
裁判で有罪になり保釈金も払えないので刑務所に入れられた。
その人は言った。
魔法で良い事をしても警察官に逮捕されて刑務所に入れられる。
この町では魔法は罪なのだ。
ある日、その人はこの町からいなくなった。
後には今までと同じ様に、
何も飛ばない空と、
病気で死ぬ人と、
轢かれて死ぬ人と、
貧困で困った人が残った。
氷はリリコ
洗面所に入る朝の光が一番リリコだ
水色のリリコ
青と白の中間じゃない水色
赤い透明の石鹸を日に翳す
胸がじっと傷んだ
ピアノの音がルリリと光る
白い洗面台に透けるのが
心臓の花のようだ
ルユラの花の匂いがする
緑色の葡萄が茶色の袋から覗いている
ひとひらのおもかげが
通り去っていくまぼろしが見える
公園の鳩を見ていると
一羽だけ少し違うものがいた
羽毛は白く 背中は淡い茶色
しかも縮れている
背中の茶色が気になって
私はその鳩を「テリヤキ」と名づけた
毛色が違うからなのか
他より一回り小さいからなのか
大きなボス鳩に執拗に追いかけ回されていた
くじけるなテリヤキ
さらにその時
意地悪そうな顔をした小さな女の子が
ニヤーっと笑いながらテリヤキを蹴る真似をした
臓腑を抉られるような心地がした
私は涙ぐみながら食べているおにぎりをテリヤキに分け与えた
あれから二十年ほど経った今頃気づいた
なぜ考えつかなかったのだろう
テリヤキが他より一回り小さくて
毛色が全然違うから
私はテリヤキを大いに憐んでいた
だがそれは美しい毛色
きっと品種のハトが逃げ出して野生の群れに混じったんだ
テリヤキ王子!
先生が此処で待っていろというので僕は立ち続け、ただ、待っていた。
陰鬱な廊下の突き当たり。ある部屋の前に僕は立たされた。
かたく閉ざされた重い扉の前にいて、僕は欲しくもない映像を延々とみさせられている気である。ここが最端であるかの様に、その扉は開いてはいけない様子であった。また同時に、開くべきものの様子であった。幼稚な期待と疲労感が無い混ぜになり、先ほどから怯えながら待ち構えていたあの頭痛が一瞬、後頭部付近を通過した。
仄暗く寂しい空間にステンレス製の扉は黒いままである。無論、一週間が経ようと、この扉は暗い場所に黒いままである。そういった想像がこの扉と僕の間に隔たりを設ける。普段退屈なほど記憶に残るもの、例えば友人の笑い声であったり、散歩中の飼い犬の背後であったり、自動ドアが開く瞬間であったりするああいった退屈な記憶とは違い、この扉は僕から途方もなく遠く、捉え難いのだ。僕は懸命になって(半ば意固地になって)この景色を記憶にとどめようとした。目の前のステンレス製の板をじっと睨んだ。しかし眺めれば眺めるほどそれは僕から遠ざかってしまう。目の前に広がる景色が頭のどこかへ行ってしまう。そうしてまた捉えようとするのだけれど、それはより一層深い奥まりとなって、いつまでも僕から離れて行ってしまうのだ。
扉はここにあり続ける。この姿を保ったまま、僕がこの場を去った後もここにある。
なんとなく僕はこの扉を前にして、動き難く、立ち続けた。
先生の声が聴こえる。それはほとんど扉の、その深い奥まりが僕を呼ぶのだった。
一本の綱がビルの屋上とビルの屋上の間に渡っている。一人の青年が今まさに綱渡りをしようとしている。青年はビルの下に集まってきた観客を煽るように張り渡された綱をゆらせてみせる。そして拍手を強要するように両手を頭の上にあげて手を叩いている。
冬の凍てついた風が吹く中で観客はコートの襟を合わせ、寒さに震えながら屋上を見上げている。はやく始まらないかとでも思っているように、足をすり合わせ歯を震わせている。わずか十人程度しかいない観客が一人また一人と去っていく。青年がいつまで経っても綱を渡ろうとしないので、飽きてしまったのだ。
青年は焦りだす。命を賭けた綱渡りをするのだから、もっと大勢の観客が必要だと思っているのだが、期待に反して増えるどころか減っている。このまま観客が集まるのを待っていれば、逆に減っていく一方だろう。強い風がおさまるのを待ちたかったが、青年はやむを得ず綱を渡る決断をくだす。
綱は揺れている。風は背中を押してくる。ビルの下に来た警官が、そんな無謀な事は止めてすぐに下りてくるように叫んでいる。警官の声に青年は何故かほっとするが、それを否定するように首を振る。失敗はしない。落ちることはない。落ちれば何が待っているのか、青年は充分に理解している。それでも辞めない理由をうまく説明ができない。もし止めれば観客から軽蔑されることだろうが、街を去る予定の青年にとってはそんな軽蔑などたいして意味を持たない。プライドのためでもない。青年は綱渡りに誇りをもって挑んでいるわけではない。青年は綱渡りをしなければならないからしているだけなのだ。拒絶することは有り得ない。何故しなければならないのか、その問いを愚問ということを青年は知っている。
綱の向こう側から黒猫が渡ってくる。野良猫だろう。青年の関知しない猫だが観客は青年が綱渡りをする前の前座とでも思っているようで、ビルの下から拍手をしている。黒猫は揺れる綱を恐れることもなく器用に飛び跳ねながら渡ってくる。事も無げに綱を渡り終えた黒猫は、青年に飛び付くと頬に爪を立てて去っていく。青年は怪我をするが、観客の手前笑顔を絶やすことがない。
黒猫が簡単に綱を渡ったことで青年への期待は下がる。青年は焦る。予定していた命綱を外す決心をする。バランスを取る長い棒なども使わない。意をけっして青年は綱の先に登り、一歩また一歩と進んでいく。風のせいで身体がふらつく。観客は静まり息を飲んで見守っている。警官も声をあげて驚かれることを警戒して黙って見上げている。すべての注目が青年に集まる。この瞬間、青年は世界の中心にいる。一歩踏み外せば、下に落ち、頭を地面に打ちつけて死ぬだろう。死と隣り合わせのこの瞬間、猛烈に生きていることを感じる。青年は湧きあがってくる歓喜に身を熱くし、綱を渡りきることを夢見て前に進む。
綱を半分ほど渡り終えたとき、歓声が聞こえてくる。実際は青年が落下する悲鳴なのだが、青年にはこの上もない歓声に聞こえる。歓声は青年を包み込み祝福する。成し遂げられなかったものはなにもない。綱を渡りきらなかったとしても、歓声を肌に感じた青年は満足していた。落下しているのに、上昇しているような気がしていた。地面はとてもゆっくりと近づいてくる。口を開け、目を見開き、声をあげる観客の一人一人の顔がはっきりと見えてくる。
このとき歓声と悲鳴を間違えていた事に青年はようやく気づくが間に合わない。地面に衝突した青年は笑っている。幸せそうな笑みを浮かべて、落ちたことを肯定するように両手を広げている。地面に衝突する瞬間、気づいたことを否定し、誤解していたことを肯定したのだが、それは青年自身の最後の目標の達成でもある。
綱を渡りきらなかった青年は愚か者と呼ばれるようになり、少ない観客はすぐに散り、警官を怒らせたが、落下した青年がそのことを知ることはない。
綱はビルとビルの間に残された。いつかまた愚か者が現われて渡ることを期待し、戒め、訓告とするため放置された。ときどき通りすがりの人が綱を見上げるが、自ら渡ろうとはしない。愚か者になる勇気もなく、誰かが渡ってくれるのをただ待っている。
■北原千代選評
根源的な言葉のちからというのでしょうか、テキストの表より、むしろ背後から鮮やかに、あるいは気配のようにたちあがってくる詩、そのものに導かれ、気づいたら作品の只中にいることがありました。ほんとうの詩は、書き手の内部で完結したり燃え尽きたりすることがなく、書記されてからも動きを止めない動的存在のようです。読者もそのテキストの行く末に関わることができるかもしれないと思える、とくべつな喜びの瞬間でした。
調子がよい時もそうでない時も投稿を続けるのは、並大抵のことでないと思います。けれども日々の営みのうちにいつかきっと、書くべきテーマに出会い、ふさわしい声とリズムが固有の文体となってあらわれる幸いが訪れるのではないでしょうか。そのときを待ち望み、自分の想像力に忠実であること、これは文体を探し求めている途上のわたしがいつも願っている、唯一のことです。
できるだけ先入観を持たず、作品本位を心がけてこれまで選考に臨んできましたが、今期は一年を通して作者について気づいたことにも、少し触れたいと思います。
【入選】
石川順一「パレード」
巧まぬユーモア、飄々としておもしろく、やがてかなしい。文体がすでに確立し、対象への独特の迫り方に魅力があり、読むたびに味わいが深まってきます。どこにでもあるような町と人のいる風景が現れ、無邪気な幼い子どもたちに注がれるまなざしのもとを辿っていくと、ひとりの人間に行きあたります。人生に願いや目標を抱きながら成就しがたい現実が普遍化され、人となって通りを歩いているのが見えます。畑を耕し、ときにはステーキ弁当を奮発し、泥のついた手で未来日誌を書き続けていく…健気な姿にしみじみと共感を覚えました。重力を感じさせない詩行の跨ぎで、重い荷を軽いもののように読者のもとへ届ける石川さんには、不可侵の文体があり、そのことにはっきりと自覚的な詩人だと思います。
末野葉「十年前」
経験が作品になるまでの時間に思いを馳せました。痛みも恐怖も伴うに違いないたいへんな手術のあと、「日が暮れたら野営をして/話したいことを話す」、病棟で手術後のベッドに横たわる人の姿がうかがえます。大手術だったのでしょう、麻酔のねむりに入っていく過程や、術中に聴こえていたとおもわれる音、意識のあわいで聴く音がとても印象的に響きます。すっかり取り除かれた悪の病巣は「力あるもの」で、おそろしいはずなのですが、すべては夢のなかのできごとのように歌や踊りの幻想のなかにとりこまれ、いのちの歌が聴こえて、明るいほうへと導かれ、孤独ではなくいつも周りに人の気配があります。詩行がとてもゆたかですから、年月の重みの意味を直截に乗せたこのタイトルのほかに、詩的真実を反映した別のタイトルが考えられるかもしれません。末野さんの作品はいつも読み応えがあり、リアリズムと幻想が混然一体となったやわらかな感性が魅力的です。
なとふむら「鳩がいた」
若さの只中で生まれる詩は、舞台の展開も色彩も、生まれたてのように柔らかいものです。回顧のなかでふりかえる若さには、硝子越しに対象に触れるもどかしさがありますが、この詩は言葉がむき出しのままに現れ、純粋な刃で今しも心の膜が破られていく快感を覚えました。「夕日が海面にオレンジ色のカーペットを敷」いて「私は海を歩けないから代わりに船を作る」、さらに、一両編成の電車が到着し「私はその一部屋さえも上手く使えなくって」もまた、そうでなければならない必然性をもっています。「もう、も戻れないのだろう」の少し甘さの残るような独白も、すとんと胸におちてきました。
柿沼オヘロ「浜辺にひとつ」
ひきだしの中にある海いろの水たまり、そのものが詩でしょう。冒頭で、白い日ざしのライトが当てられ、次に登場する子ども。「割られる日ざし」は、記憶のガラス越しに、そのガラスを破って現れるからでしょう。肉体のかなしみが沁みています。「砂ひとつぶんだけ どうかしてしまった/子どもがある」。子どもがいるのでなく「ある」のですね。人は土踏まずで、直立のバランスを取るようです。みずから打ちこむ楔のパラソル、「それで保たれる」は、この詩の真実が立つために必要な、唯一無二の言葉の発見だと思いました。
南久子「彼岸を過ぎた頃になると」
自然体を貫きながら、奇妙な歪みが文体にあらわれている箇所が光っていて、「ことばがつながると/まもられているのが肌をつたう」などはとりわけ出色だと思います。熟達の書き手である南さんは、今期も力作を三作品投稿され、確かな力量を感じました。大きな詩的跳躍で母性の不可思議を描いた「深夜の珊瑚」も秀作でしたが、歩く速度が感じられるこちらの作品にある独自の発声と姿勢を、より確かなものとして受けとめました。最終行は独り言のようでいながら、読者に潔くひらかれていて、思わず握手の手を差し出したくなりました。
【佳作】
泉水雄矢「粉雪」
心身の傷が癒えるまでの過程が、折り紙の行為に託して繊細に描かれています。痛みの記憶で折られた紙の鶴が粉雪の下界にむけて飛び立ち、やがて銀世界に溶けていく…希望が仄見えてきます。暖かい室内では猫も人も、丸くなってまどろみに入るのでしょう。いのちある人と猫の体温、吐息の湿度が感じられる作品です。
梶本堂夏「脚をわすれた夜の独唱」
どこにも無駄のない、ひきしまった硬質の文体が異国の、おそらくはヨーロッパの夜の旧市街地を想起させます。「その採譜された一音に/だれかが名づける」壮大な叙事詩がここから始まる予感がします。どの行も厳しく研がれていますが、余韻の響く終行に、とりわけ魅かれました。やはり悩ましいのはタイトルです。「脚をわすれた」に躓いてしまい、詩篇全体の読解が及ばなかったのですが、少ない文字数で天井の高い聖堂のような作品世界を構築できるのはすばらしいと思います。
nostalghia「寒いパレード」
どうぶつたちが置かれた苦境から人間のありさままで、重層的に描かれていますが、なんといってもこの詩のすばらしいのは、衒いのない最終連の、しなやかな受容体だと思うのです。不条理の世の中にあって、多くの詩と詩人が言葉を尽くして訴える憤り、虚無には底知れない深さがありますが、一方で、それらをのみこんだところにある温かさに触れたい、ゆるされたいと読者は思わないでしょうか。nostalghiaさんは、しぜんな肉声の呼びかけのできる貴重な書き手だと思います。内実の温かみを予感させるタイトルが、よりふさわしいかもしれません。
たいち「Cho」
大好きと心からおもえる相手に巡りあえた幸いを、祝祭のように謳いあげています。あちこちに詩のきらめきがありますが、とくに「蝶 が/蝶 の いきどまり に 満ちる」に、独自の感覚が冴えていると思います。蝶への愛は、どの詩行にもあふれていますから、最初の2行は不要かもしれません。対象に向けていっしんに発する言葉の繊細なこと、そして「わすれもの で ある/この からだ」にまで行きつく、内省の深まりに打たれ、愛と死の接近をおもいました。
古野千尋「蝶々」
一羽、一筋、一粒、一匹、一人、ひとかけらと、断面を変化させながら、蝶に扮した人間について詩的観察を行った美しい幻想作品です。マクロレンズのなかに設えた舞台のうえで儚げに舞うヴァリエーションのようです。最後に登場する「あのひとかけらの蝶」は、書き手のたましいの近親者か、あるいは分身なのかもしれません。別の作品『夜想曲「オルガン付き」』も力作でしたが、こちらの作品の「僕」は、ハープシコードの奏でる音楽で、作中の「僕」は前者よりも解放されてかろやかです。
■根本正午選
【入選】
nostalghia「〈レタレタ〉」
生き物の死骸は、長い年月をかけて化石になることがあるといいます。この詩の「レタレタ」とは、長い時間を経てだれかに読まれうるかもしれない、いわばことばの遺骸としての化石のようなものなのかもしれません。「そして〈レタレタ〉と/ある死者がそう呼んだのは誰から聞いたのだったか/ころころと道を行き来する私たちは/あるとき、ふと、発見される/魂の魂が、影のなかの影として/そこにあることを認められる/それからじっくりと目を擦り、名付けられるまでの仮定として/〈レタレタ〉と。」レタは文字であり、あらゆる場所で石ころのように大量に流通することばの羅列なのでしょう。とはいえ、「生き物も死に者も/まんべんなく路上にある/貝をひろうようにストリートを下ってみてほしい。」とあるように、そもそも私たちという存在そのものが使いつくされたことばの総体でしかないことも、詩が明らかにしている通りですね。詩と詩でないものをわける偶然をえるために、子どもが初めてことばを発するような気づきが要請されています。「〈レタレタ〉/子どものような舌ったらずさで/子どものように、私たちを訪ねてみてくれ。」
高橋克知「【とるまたうた】で待っている。」
第二連、「波佐見焼きの皿には赤い煮魚、御椀に盛られた石榴、竹ザルの上の/トマトを、嬉しそうに黙すのは、はんたまるやの静かな美徳。」にそっと置かれたひらがなの「はんたまるや」はキリシタン用語で、キリスト教が禁止されていた時代にひそかに信仰の対象となっていたマリア観音像を指すそうです。いいかえれば、これは仏のふりを強いられた西洋の神様なのですが、ほんらいそうであるべきもの、と、実際にはこうであるもの、の間には大きな乖離がありますね。そうした間隙から浮かび上がってくる惨禍の記憶や、現在も行われている非道な出来事が、ひとつの時間軸を行きつ戻りつしながら織り上げられていて、そうした光景のうえに、詩による祈りの声が重ねられている、という読みをしました。ただ、その祈りはけして静かなものではなくて、むしろ絶叫を伴うような、激しい嘆きの破裂であるということが、ある重苦しさをもって読者に迫ってきます。どこかにある(どこにもない)一軒家の前に広がる昔ながらの穏やかな光景、そこに燃え上がる火の粉を作者は重ねて見ているのでしょうか。「【とるまたうた】で待っている。網膜。どっと沸騰する羽釜の飯。/ざあああん。ざざん。喧しい火の雨が、激しくピアノを叩くように/野薔薇の生い茂る廃虚の庭先へ、降りそそいでいました──、」(第一連)。
柿沼オヘロ「浜辺にひとつ」
同じことばを繰り返すリフレインにも効果的なものとそうでないものがありますが、第一連は前者のように思えます。「あちらに向かう/波のふちどりは白く/あちらから来る波のふちどりは/雲を削ってきたように白く/そうして掠れた空からは/すくみ上がるほど/静かな日ざしがある」、寄せては返す波の動きにものを削る前後の動きが重ねられ、そうして削られたものたちが沈黙し、日差しに焼かれている光景が自然に目に浮かびます。この題名の「ひとつ」とはなんなのか。第二連にそのヒントがありました。「浜辺のふちに/かたむく勉強机がある/ひきだしの中の砂じんに/砂じんの中のひと粒がある/ひと粒のすこし平たいところに/赤と黄いろのパラソルを打つ/子どもがある/鋭いものを 打ちつける」、砂粒のなかの記憶、より詳しくいえば他とけして混ざり合うことのない、鮮烈な単独の記憶、でしょうか。詩はそのひとつを取りもどそうとするかのように進んでゆきますが、それがなんなのかは明らかにされません。ただ、それぞれのひとつを大切にするということは、「土踏まずの境界に/閉じたままのパラソルを ひとつ/深く深く打ち込んでいる/ひとつ ひとつ それで保たれる」と最終連にあるとおり、自分自身に亀裂を入れるような、痛みを伴う行為に違いありません。影と影でないもの、思い出せるものと思い出せない(とされている)もの、土踏まずによって踏まれえるものと踏まれえなかったもの……そうした境界を知らずとつくってしまう、つくらざるをえない私たちの姿に、詩がかたちを与えていると読みました。
古野千尋「夜想曲「オルガン付き」
「冬は南極の夜のやうに。/あの爪は心の傷に引っかかります。/それは南の星座を真っ二つにして/それは硝子の弦をはじいて揺らし/あのてらてらとやはらかく輝く/光の絹をかき乱します。」と第一連を読み進めると、肌を切りさくような冷たさの幻を感じます。それはここに書かれた寒さがただ気温の低さを指しているだけではなく、ひとの古傷を開こうとするような酷薄さを備えているものだからでしょう。「光の絹」はおそらく天の川だと想像しますが、人生を貫く一本の時間軸としての喩の川も想起させますね。第二連で語り手は「それは液体です。呼吸する玉色の水です/それはまるでカーテンを濡らす薄暮の断面です。/私にはもうそれをきちんと貯めておく瓶が/残念ながら残っていません。/溢れて割れて溶けてしまいました。」と、荒涼としながらもうつくしい風景を前にした私たちの欲や不安をかたりますが、私はこの詩はここで過去へと夜の川(時間)を遡ることを促しているのだという読みをしました(もっとも、ここに登場するものたちの意味についてそれぞれ解釈しようとするのは無粋かもしれません)。それはしかしよくないものを呼び起こしてしまうことでもあり(「きちんと貯めておく瓶」は割れてしまいます)、夜を歩くときには注意して進むようにと詩は優しくかたりかけています。詩の速度がなにによってもたらされるのかは謎のひとつですが、それぞれの詩連のゆったりとした時間の流れは、私たち自身よりもはるかに大きな流れがそこにあるのだろうというひそかな確信を抱かせるのに十分だと思えます。
末野葉「十年前」
傷はただ傷であるだけではことばを産むことはできない、ということを考えさせられる第一連。「うぶ毛の生えた/白い砂漠に/一本まっすぐ通る/薄い皮膚の膜がはる傷跡/それを辿る旅の一行は/子音の多い言語で喋るが/互いに相手の音を聴き取れない」、ここで注目すべきなのは子音でしょうか。母音が強いと一般的にいわれる日本語を経由してはえられなかった恢復が、子音(外国語)を通して得られたのだと読めます(が、それもまた薄皮/仮初の恢復であることに留意すべきです)。第二連、「シッ シュクチ クツ ツキ/シッ シュチ チクッ ツキ/それでも相手の音を繰り返す/わたしたちはわかり合う」と、優しい反復によって相互理解がもたらされる光景は、心あたたまるものであると同時に、なぜそれが(子)音でしかなしえなかったのか、という謎を読者に突きつける構造になっています。題名の「十年前」は、この詩が書かれる契機となった出来事が起きた日付だと想像しますが、詩の語り手は旅(か、あるいはそう呼ばれるうる重大ななにか)を通じて、「わたしたちはわかり合う」ことができない場、同じことばを使っているのにも関わらず、わかりあうことがけしてできない生の現場を経験したのかもしれません。最終連、旅の一行が目的地に着かないのは、相互理解があればそもそも目的地などいらないのだという牧歌的な読みがある一方、そもそもそんなものは存在しないので永遠に堂々巡りの円を描いているのだ、と読むこともできる、怖さを孕んだ多層的な作品です。
【佳作】
未来の味蕾「Je t’aime(ジュテーム)」
ジュテームは「I」と「You」と「Love」でできていますが、「Love」にはめぐり逢うこと以外に、すでに別れが包含されています。むしろ、関係が破綻したあとに事後的に愛が見出されたのでしょうか。第一連、「あなた、と出会い、あなた、と別れて、わたし、はもういちど、生/まれた、それは柘榴石のように、鮮やかに光る想ひ出なのに、出会/った場所は、G o o g l e m a pで検知されない、それは匂いを/摘み取られたドライフラワーのかすみ草のひとつ、ひとつ、の影、/それはゆるされる、ゆるされない、ゆるされたかった、ゆるされな/かった、愛情の裏通りと表通り、銀貨を投げて、幾度も占うほしの/行方、」と、許される/許されない、出会う/別れると相反するものが並列されていることも印象的で、矛盾することがらが同時に存在できてしまうことに、ひとを愛したり(憎んだり)求めたり(反発したり)することの難しさがあるという気づきがあり、この詩のおもしろさがあるように感じます。くりかえされる「ジュテーム」は、そうした矛盾を生成する呼び水のような役割を果たしていますね。ただ愛も(そして詩も)消費され続ければやがては飽いてしまう。後半の「なんども、なんども、甘いジュース/を飲めば、その甘さがまた渇きを産んで、飲む度に、喉がかわく、/終わらない砂漠のように、かわきつづける躰と喉の奥がうずいて、/」、求めていたはずのものがその魅力をうしなってしまう、「甘いジュースがあたりに飛び散った/雑巾はべとべとに濡れていて/もうこれ以上吸収できなかった」も、痛切な余韻を読者に与えます。欲しかったはずなのに、なぜ要らなくなるのでしょうか。
たいち「Cho」
「Cho と/わたし は つぶやく/その こころもとない/くち の かたち/息 が/宿 を 発ち/皮膚 が/目 を 閉じる/蝶 が/蝶 の いきどまり に 満ちる」、口から出ずる呼気によって発声がなされ、そして意味を持つまでの短く長い瞬間。発声されたとき、Choはたとえば蝶でもあり腸でもあり町でもあり、そのいずれでもないわけですが、私はここでいわれている「いきどまり」は、読解されることへの可能性であるという読みをしました。宙に投げ出された音はそれだけではことばとして成立しえない、それが読まれうるためにはまず第三者に解釈されなければならない、それが「満ちる」ということだと思うのですね。その果てしなく困難なはずの瞬間が一種の祝福として発見されていて、その喜びが描かれている。ただ、後半で「わすれもの と なる この からだ/わすれもの で ある/この からだ」とも、あるように、それは書き手を置き去りにしてひとりぼっちにするような祝福でもあるでしょう。一度書かれてしまった詩は、不可避的に解釈の海に放り出される、吐息がどこにいくかわからないように。そのときそこに残されるものはなにか。最終連、「影/すべてのものたち の 影//このよ で もっとも うつくしい/空席」なのかもしれません。
桃山ほくろ「皮肉」
皮肉はアイロニーであり、また皮・肉でもあるという発見がまずあります。それは皮(表層)と肉(こころ)の間にある距離でもあるでしょうし、そのふたつのはざまで揺れ動く私たちの矛盾そのものかもしれません。「精神だけは強いくせに精神の弱きを憎み/肉体はどうせ弱いくせに肉体の強きを恨む/相互 ないものねだりです/わたしはまた、うそを承知で/嗚呼、死ぬのが安パイか/と呟いていた/まるで生きがいかのように、それこそ/ 矛盾」。一方で、作者は表層と本質を対立させるのではなく、むしろ私=本質という構図そのものも嘘だということを知っています。「精神イコールわたし/の/方程式も うそだ/勝手に定理化されていたしニアリーイコールだから/肉体よ、許してほしい」。表層も本質も、そこにある「わたし」も嘘にほかならない。それこそがアイロニーだということなのでしょう。第一連、「死は恥/であることを前提としていますが/いつからか仮初/救済 を覚えたわたしの精神は/いまだ/新鮮/濃密/を保っていまして、」という書き出しも魅力的。
泉水雄矢「小川の石」
「きみは小川になりたかった/いつも/川べりに腰掛け/望まずして川である人のぼやきを眺めては/ねたましく/小川の石を摘んで持ち帰っている」と始まる第一連を読むと、この小川はかつて実在した川でもあるのだろうと思わせますが、同時にひととひとの交流(ストリーム)の場であり、また記憶を過去へと遡るための道であり喩でもあるのだろうと読みました。詩が書かれはじめたときそこには契機というか、まずその方法があらわれてしまうということでしょうか。この詩における「石」とはなにか考えてみたのですが、水のようにうつろう時間と場所のなかで、その場限りの記憶を刻むことができるものという読みをしました。たとえ、それを拾い集めることが持ち主を傷つけるかもしれない刺々しい記憶であっても、その記憶の持ち主にとって、それはやはりかけがえのないものにほかならないでしょう。「人間はただ笹舟が流されていくように/生きて、尽きていく。/帰路に着く学生の群れに押し流され/その日のきみは 強いて尖った石を拾った。/きみの命もまた、等しく笹舟だったから」も好きな連ですが、「爪はいつも土で汚れていた」といった行にも詩の手応えを感じます。石を持てば汚れる、汚れなければ嘘ですね。
田中綾乃「解」
第一連に「あなたは混乱していた/大人たちは問いつづける/何がわからないのか/どこがわからないのか/人間としての正解に導こうとする」とあるように、私たちは便宜上、わかっていることをわかっているふりをして日々を過ごしていますね。だけれどもそのふりをやめられないのは、わかることが恐ろしいからだということがいえると思います。この詩でいわれている「大人たち」にはそのことがわかっている。わかるふりをした【わかる】が大人たちにとって正解なわけです。わからないにとどまることには痛みが伴うだけではなく、この詩にある通り「どんな言葉もあなたを救えない/だけどいまそのことに/わたしは苦しんでいられてよかった/鈍麻せずにいられた」、わからないと気づくことによって不可避的に、鈍麻とは逆の鋭さをえてしまうからです。私たちにとって、詩をわかるということは、果たして可能でしょうか? 作者にならって「わかる なんて言えない/わたしにもわからない/少なくとも/ふたりともわからない」(最終連)というほかありません。
渡辺めぐみ選評
1年間日本現代詩人会の詩投稿欄に御投稿いただき、ありがとうございました。詩作を始めたばかりの方から詩集をすでに刊行されている方、詩やその他の文学のジャンルで入選や受賞の経験を持たれている方まで様々な方々からの何百という数の投稿作品を毎回精読させていただき、私自身の詩作や生き方に多くの力をいただくことができました。私の場合、入選候補作品や佳作候補作品が実際に選ばせていただいた作品よりもずっと沢山、特に佳作は膨大にあります。それらを3ヶ月間の投稿作品全体においての相対的評価によって絞り込み、5篇の入選作品と5篇の佳作作品を選出させていただいております。常連の投稿者の方々の場合にはそれまでの3ヶ月間の投稿作品と比べて優れているかいないかという観点からも判断させていただいた場合がありますことを申し添えておきます。また、優れた作品を投稿されても明らかに投稿規定(3ヶ月に3篇まで)に違反して非常に沢山の作品を投稿された方については、全作品を拝読いたしましたが、今回は選からははずさせていただきました。
【入選】
愛繕夢久「魔法使い」
魔法使いが魔法を使って人助けをするたびに逮捕され誓約書を書かされてゆき、とうとう裁判で有罪になり刑務所に入れられ、「この町では魔法は罪なのだ。」と言って町を去ってゆく。すると魔法使いがやって来る前の病死や交通事故死や貧困で困る人々がとり残されるという物語詩である。キリストの処刑、ピューリタンの時代の魔女狩り、現在の世界情勢及び教育現場での画一的な評価基準などを想起させられる。テーマ自体には既視感があるが、無駄のない簡潔な語り口で法治国家の構造上の危うさと感謝を忘れる人間の性(さが)の恐ろしさを鋭く突いていることが貴重である。
青山誠「みずいろ」
「氷はリリコ/洗面所に入る朝の光が一番リリコだ/水色のリリコ」、「ピアノの音がルリリと光る」など名づけやオノマトペに才気を感ずる作品だ。また、「赤い透明な石鹸を日に翳す/胸がじっと傷んだ」、「白い洗面台に透けるのが/心臓の花のようだ」という詩行が感覚的に胸にしみる。短い作品だが、詩の本来的な発生を見る思いがした。「ひとひらのおもかげが/通り去っていくまぼろしが見える」という最終の2行は、視点が手許からまぼろしの遠景へと移され、
作品の世界を広げると同時に余韻のある詩情を醸し出している。
酒井花織「一羽の鳩への憐れみの行方」
公園のハトの群れを眺めているうちに、羽毛が白く背中が淡い茶色の、他のハトと毛色の違うハトを一羽だけ見つけ、そのハトを「テリヤキ」と名づけ、ボス鳩に執拗に追いかけまわされているこのハトに励ましの言葉を送り食べかけのおにぎりを分け与える。心温まる光景であり、「テリヤキ」と名づけるところにユーモアが畳まれている。しかし、本作品の面白さは、この体験から二十年経ち、自分が「テリヤキ」を当時憐れんでいたがテリヤキの毛色は美しいこと、品種のハトが逃げ出し野生の群れに混じったのだろうと悟るところにある。生命体の個体の真価をたまたま目にした群れの中の数の論理ではかっていたことを反省し、孤立しているものに独自の価値を見出す視点に惹かれた。このような醜いアヒルの子のテーマ自体は新しみがないが、最終行での「テリヤキ王子!」という20年前のハトに送ったエールが面白くもあり微笑ましくもあり、読後に感動が残る。
青島蒼「扉」
陰鬱な廊下の突き当たりで先生に此処で待つよう指示され、立ち続けていると
目の前の閉ざされた扉のことが気にかかるようになり、扉についての思考を巡らせゆく作品だ。それだけの作品ではあるが、描写力と予測のできない展開感
に読まされてしまう。「この扉は僕から途方もなく遠く、捉え難いのだ。僕は懸命になって(半ば意固地になって)この景色を記憶にとどめようとした。目の前のステンレス製の板をじっと睨んだ。しかし眺めれば眺めるほどそれは僕から遠ざかってしまう。」といった詩行には内的エネルギーの高まりが感じられ濃密な詩的な空間が立ち上がっている。最終2行の「先生の声が聴こえる。それはほとんど扉の、その深い奥まりが僕を呼ぶのだった。」という詩行も未来に向けての可能性を示唆しつつ扉の存在感を更に深めていて見事である。
吉岡幸一「歓声」
ビルで命綱をつけずに綱渡りをする青年と路上の観客との関係を描いた作品だが、本作品に限らずこの詩人の作品は行為の意味を読者に考えさせようとするところがある。本作品では観客から脚光を浴びることを望む町を去る予定の主人公の青年とスリリングなショーを見たがる観客との一種の駆け引きが行われるところに読み応えがある。しかし青年の期待する観客からの歓声はあがらず、綱渡りの途中で落下したことへの観客の悲鳴が初め青年の耳に歓声として聴こえ、落下の途中で勘違いに気づくが青年は満足して死亡する。この結末はアイロニーに満ちていて、綱を渡り切らなかった青年が愚か者と呼ばれるようになる後日談とともに青年の愚かさや観客の物見高さが印象を残す。同調圧力のために歯止めの効かなくなる人間の怖さが最も心に残った。この詩人の作品は書法が完成されており、すでに多くの入選や佳作の履歴を持つ詩人なので、そろそろ一篇の作品で評価を目指すことを卒業し、詩集を作られてはどうだろうか。
【佳作】
中島隆志「夕涼み」
「親族一同が/夕暮れを炊き込み/夏の一角を見つめる/夕涼み台は/それだけのために/腰を低く運ばれた」という第1連から当たり前の表現は使わないという雰囲気でコンパクトにシャープな詩行が突きつけられる。「古風な少女は/じじの手をにぎる/校舎の同級生のために/練習のつもりが/じじのしなびた姿勢は/我先にゆるく立つ/ばあや」という詩行に最も惹きつけられた。じじは認知症になりかかっているので孫の優しさを受け入れられないのかもしれないが、夕涼みをする家族の結束といたわりの気持ちが心に残った。
倉丸仄歌「円山散歩」
投稿時の職業欄の説明によれば著者は盲人声楽家とのこと、幼い日にお母様とともに通った様々な動物のタイルの貼られた地下通路を通ってかつて行ったことのある動物園に年老いたお母様と再び出かけた日のことが、聴覚と嗅覚によってありのままに綴られている。素朴な作品だが、障害を克服し生を肯定的に捉えようとする姿勢に心打たれた。お母様への愛情の深さが作品の基底にあり、読者の心を和ませる。
芦川和樹「フロッグが佇「ヌ」」
投稿作品全体の中でも異色の作品だ。次々に繰り出される詩語に速度感があり、食材と動物のイメージの交錯と言葉遊びに特色がある。「呪い」を甘さを持つ「砂糖」と規定するのは甘言などのイメージに裏打ちされたものだろうか。「バスターミナルは崩くず/れて、カタツムリが直しているところ」といった詩行もさりげなく読まされるが、事故現場や被災地などの復興の遅れに立ち向かう力の遅さを思い浮かべることもできる。しかし、カタツムリのかわいらしさも前面に出ているので、人手の尊さへの繊細な感受があるのかもしれない。意味で構成されない詩行ではあるが、この詩人なりの感性による世界に現実の風が吹いているように私には思える。
梓凛斗「世知辛いなぁ」
方言が活きている読みやすい作品だ。誰もが共感できることが書かれていて、まっすぐに心に届く。「悲しい過去があってもいつかは笑い話になるんかな/
その日まで私は生きとるんかな」、「今はこれでええ/そう思える/そんな気分を大事にしたい」、「空にきいてん/あんたの夢はどこにあるんや/雲がこたえた/夢なんかなくてもただおるだけでええんやって」などの詩行が疲れた精神に癒しのように感じられ、ほっとさせられた。一つの幸福論になっている。
梶本堂夏「季節に取り憑かれた都市」
現代詩的な技術を持つ作品だ。「画鋲でとめた夜が/しなびた朝に洗い流されて//発注しておいた労働者らが/暗渠となって改札口を抜けた//そこでは人間は印字された音符のように/どこまでも冷徹に指揮されるためにあった//その不在の指揮者の正体は/まだだれにも暴かれていないーー」という前半の詩行は資本主義社会の労働者への搾取を述べたものだろうか。終わり部分の「すると合金の扉は空気を閉じ込め/果実のようにさがる夥しい数の腎臓が/暗闇に向かって速度をあげた//どれだけ日めくりをやぶいても/そこには疲弊した季節だけがある」部分の詩行も衝迫力がある。野獣派の絵のような勢いと暗さとが固有の世界をリアルに浮かび上がらせている。