日本現代詩人会 詩投稿作品 第29期(2023年4月―6月)
厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。
■北原千代選
【入選】
伊勢さきゑ「風(プネウマ)」
nostalghia 「ここに来て、ごはんを食べていい」
広瀬ゆめの「あまてらす」
石川順一「帽子」
熊倉ミハイ「失敗実験」
【佳作】
芝田陽治「ある山の」
早乙女ボブ「残夏」
古野千尋「出発」
小蔀県「地平」
田口登「本を食べる」
■根本正午選
【入選】
村田活彦「!(感嘆符)」
南田偵一「仮執刀」
高橋克知「わたしのトマト」
佐為末利「できもの」
【佳作】
末野葉「乳」
卯野彩音「寂光」
広瀬香「雨の日」
いっきゅう「ほんとうのこと、」
八尋由紀「ペトリコール」
■渡辺めぐみ選
【入選】
メンデルソン三保「白いケープ」
吉岡幸一「寿命の水」
妻咲邦香「緑の日々」
渡邊荘介「光油」
梶本堂夏「窓から港が見える室内」
【佳作】
嘉藤周「時計の針」
田中綾乃「清貧」
H・ell「俺(わい)の賛美歌」
河合宏「関くん」
村田活彦「!(感嘆符)」
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伊勢さきゑ「風(プネウマ)」
風(プネウマ)
風のない世界は
死のない世界よりおそろしい
緑陰のベンチに座って
風に吹かれているのは
たしかに今の私だが
初夏の風は
過去も未来も吹き通す
体をぐるっとまわって
輪郭を取る風が最初にやってきて
次は
過去から未来まで吹き通す風が
体を抜けてゆく
生まれる前の
無垢の骨でできた体に肉がつき
鼻から新しい息吹が吹き込まれ
夏はどくどく波打つ血管に酸素を運び
秋には収穫の畑に平らな風が吹く
冬が来てすっかり肉を削がれた体が
がらんどうになったとき
風は一番よく通るだろう
その時風が微笑んで
やさしい死を連れてくるだろう
nostalghia「ここに来て、ごはんを食べていい。」
ここに来ていい。ここに来て、テーブルの前に椅子を持ち寄って、
だれでもごはんを食べていい。箸で、スプーンで、
手づかみで……いい。おなじごはんを食べていい。
だれでもいい、だれでもいいから、ここに来て、
みんなでごはんを食べていい。
私のごはんを食べてもいい。乱暴に、予告なく、
叫んでいい。笑いながら、うとましく、むせこみながら
肘でつついていい。さわがしくごはんを食べてもいい。
歌いながら、飲みながら、恥じらいながら、
私はあなたを知らない。
知らないと言っていい。会話を楽しんで……
言葉を知らなくてもいい。
通じなくていい。ジェスチャーで、合図で、
水を飲むしぐさの誠実さで、あなたが誰であるかを、
伝えきっていい。
口のなかを見せながら食べていい。
いつの時代のひとでもいい。生きていてもいい
死んでいてもいい。泣きながら、
わめきながら、うでをふりまわして、床にころがってごはんを
食べていい、割った皿を投げてスポーツを始めて、
皿を割る動物もいい。
ゆっくりと伸びをして、天井を覆うものたちでもいい。
うでをひろげながら、テーブルの上に葉を落として……いい。
いいから、ここに来て、食べつづけて、
テーブルを囲んで、ごはんを食べてつづけていい。
むずかしく食べていい。
生まれたばかりでも、死にかけていてもいい。
だれかに食べさせてもらっていい。
それは、いい。そうやって、テーブルに参加していい。
ごはんを食べて……食べつづけて、
いつか去ってもいい。いつか去って……ここでにぎやかに、
悼まれていい。
私たちは歌うだろうし、また食べるだろう。
あなたの椅子に、ほかの誰かが、座りにくるのを待って、
それでいい。そうやって、ごはんを食べつづけているから。
あなたはまた来ていい。
あなたは、また、ここに来て、
ごはんを食べていい。
広瀬ゆめの「あまてらす」
あまりに深く
森が夜を吸い込んだので
酸化した闇の中
星は居場所を失った
この惑星はやさしいですから
行く当てのない星々を
胸に抱きとめました
こうして
砂浜ができ
私たちは
髪に飾りをつけることをおぼえたのです
石川順一「帽子」
歩く度に私の足下で
太陽が弾んで居る
ジュピターのおでましだ
帽子を取るまでもなく
私の帽子は風で
飛んで行って
湖に落ちていた
ジュピターは蚊に用事があるようで
私の事など眼中にない
取り敢えずお前には
レシ(物語)が足りないと
余裕たっぷりにジュピターから
忠告された
(文字通り眼中にない割には
余裕のある人?だ)
私は湖に帽子を探しに行った
とても取れそうにない水深だ
地元のサルに協力を要請すれば
サルたちは絵の具のチューブで
遊んでいる最中で
ジュピター同様
私の相手をしてくれなかった
私の湖底に沈んだ
黒い帽子は
湖底で蟹に解体されているのかもしれなかった
死海やカスピ海の様に
塩分濃度が濃ければ
帽子が浮いているかもしれないと思い
勇気をもって湖へ向かった
熊倉ミハイ「失敗実験」
壁にくくりつけられた一本のベルト
回転し反転する軌跡は目に見えないほど
暗転していく画面を観察する科学者は
ブルーライトを吸い込んで
影を被った透明人間の助手が
いまだ画面の奥にしがみついている蝉
ノイズだけを知る部屋の響きが妙
誰もがエンジェルのライトを欲しがる時間帯だ
床の裏で静寂を吸引しようとする壺
着ていた白衣が心中しようと誘惑
正しく生きてきたと錯覚していた尊厳が
結果を欲して空白を極める
それはそうと試作だった
食らっていた
もろ もろ もろ
崩れ去っていくのが分かるだろう
これが観測の終点である
渦巻きに囚われていた人形はまだ自覚しない
オンのままのカメラを誰が止めるのか
実際 実験は失敗だったのである
ペンを置く音から虚しさが波打ってきて
それを感知した小坊主がこの部屋の全てを
村田活彦「!(感嘆符)」
ほの暗い雲を抜けてまっすぐに落ちる
きみは夕立の最初の一滴
エクスクラメーション
ひとつの感嘆符としてきみはやってくる
これはきみの話じゃない
俺はきみのことを知らない
俺ができるのは俺の話だけ
息を殺しながらひんやりと便器にこしかけ弁当箱に
詰め込まれた米を口に運ぶ喉がつまるイン・ザ・便所
しっかり鍵をかけたドアの向こう
昼休みの廊下のゆるんだ賑やかさが聞こえてくる
ひとりでいるのは耐えられる
ひとりと知られるのは耐えられない
ほの暗い雲を抜けて雨粒が落ちていく
白茶けた平野部をうねりながらゆく河
いくつもの水路
いくつかの緑地
重厚な駅舎と伸びていく鉄道線路
その周りに身を寄せ合う赤や青の屋根たち
ひとつの感嘆符としてきみはやってくる
これはきみの話じゃない
俺はきみのことをなにも知らない
この詩もいつか終わる
時間をつぶすためだけに
ターミナル駅の本屋で3時間立ち読みを続け
くたびれた足でコンコースをゆく
ショウウィンドウが途切れた先には
緑色に汚れた水槽があっていつものウミガメがいる
しわに埋もれた瞳は賢者のように思えるし
ちぎれかけたヒレで泳ぐ様は
空を飛んでいるようにみえる
もちろん俺はカメのことをなにも知らない
俺はきみのことをまるで知らない
きみに言えることなんて何もない
これは俺の話ですらない
それなのになぜまだ語ろうとするのか
夕暮れの国道にカラスが潰れている
生産性と横書きされたトラックがその上を何台も何台も
通り過ぎていく
カラスは赤黒い刻印のように平たくなっていくけれど
けしてアスファルトに溶けることはない
これはきみの話じゃない
俺はきみのことを知らないし
きみは俺のことを知らない
それでもきみはやってくる
空から地上へとまっすぐ矢のように
水面に突きささりミルククラウンがはじけ
はじめての声をあげる
エクスクラメーション
ひとつの感嘆符としてきみは立っている
不思議そうにあたりを見わたして
たくさんの音や色に囲まれていることを知る
きみの耳は美しい疑問符のかたちをしている
俺はきみのことを知らない
ただきみがいることを知っている
もうじきこの詩も終わる
きみはここにいる
物語の外側で目をさます
靴の底を通して伝わる振動を感じる
きみのなかのまだ名前のない部分
言葉は魔法なんかじゃない
ミツバチが花粉を運んで飛んでいく
だがミツバチは花粉を運ぶために生まれたわけじゃない
きみに言えることがあるとするなら
きみはここにいる
俺はここにいる
それだけだ
南田偵一「<仮執刀」
引っ越し祝い、何がほしいですか
年少の友人から
鍋にしましょうか
大きな包丁、小さな包丁
祝い、なんだろうか、今度の引っ越しは
世間には
おめでたくないのも半分くらい
引っ越し中、
愛猫が脱走してしまい、
六日後に戻ってきても、
祝いなんだろうか
通販番組みたいな実証
トマト、四つ入りパックを買って
すっと薄皮に刃が吸い込まれてゆく
手術のとき
メスを入れる外科医は
切れ味の悪さに悩むことがあるのか
ヒトの肌は、男、女、年寄り、若者、おんなじではない
トマトの面の皮が
たまたま薄かっただけ
絹豆腐、掌に置き、水が滴る
包丁を格子状に落とした
底面が、斑らに赤く滲む
いい包丁をくれたのだろう
祝いだ
父は手術中、
まったく痛みはなかったと言った
麻酔が効いてたんだ
肩叩かれて、終わったこと知らされた
競馬場で呑んで起こされた時と一緒だね
父は笑った
うちの包丁もよく切れる
代わりに執刀してあげれば
きっと、苦しめた
高橋克知「わたしのトマト」
太陽の儀式、皮を剥いた真っ赤なトマトを、今、君の目の前に差し出し
ている、下ごしらえもせず、産まれたての傷口を癒すように、ガラスの
ボウルの中で冷水に浸かっている。これが私の剥き出しの心臓です、
今、とても傷つきやすい、だから、愛、という感触で、切りつけないで
下さい、安い、愛、なら試されても、握りつぶされても平気だとさえ
思える、でも、心から理解され、お互いの深い部分で、愛、を通して
細胞同士が接続するとき、きっと私も君もとても痛い思いをする、
愛している、はなんの証明にならないから、冷たい水の生ぬるさが
欲しくなり、不確かな手触りが私の肌になるまで、互いの胸を黒曜石で
暴きあい、まざりあう……
言葉を喪うための朝食の儀式、太陽のよく見える部屋、天窓からの薄く
淡い光、水がとても透き通るボウル、その時、私と君が同時に見つめて
いるもの、共有してほしい、わたしのトマト、君よどうか、一欠片も
余すことなく、召し上がれ。
佐為末利「できもの」
鏡の前に立ち
唇を突き出す
コンプレックスを打ち明けるときほど
子供じみたものはない
だから言わない、誰にも
下唇のうらっかわに
ぽっかりと口を開いた闇がある
「ニキビだったらよかったのにな」
僕は嫌味を言ってみる
もっとわかりやすく
見せつけるかのように
肌が荒れてしまえば
よかったのに、な——
やり場のない感情は
本当にやり場がないらしい
一人で胃を痛めたって仕様がないから
だから僕は口の中に
もう一つの口を作ったんだ
あの笑顔、あの声
みんなが自分の友達だとおもってる
勘違いも甚だしいと僕はおもった
堂々とみんなの前で泣いたりする
天使の格好をした悪魔
本当にかわいい
肌が白くて
女の子みたい
全然否定しないもの
褒められ慣れてるんだわ
「〇〇くんは、
あたしとは違うから」
——と言って
グラウンドの白線の向こう側に、僕を追いやった
劣等感を
やすやすと人に差し出してしまうだなんて
僕は、あの子を醜いと思った
口の中で吐く
(劣等感で、下手に出んなよ)
やだ、怖い
どうしたの
そんな怒んないでよ
手のひらを返し
腫れ物に触れるかのような態度に変わった
眉間のあたりで疼くニキビが彼女自身の主張をやめない
「怖いのは、腫れ物は、お前そのものだ」
ねえ、きみ
隠された傷は、ずっと残るって知っていたかい?
治らないんだ、傷が
もう一人の僕が
きみを嫌悪することをやめないんだ
メンデルソン三保「白いケープ」
私は北へ向かう急行列車に乗っている
開かない窓の外で森の針葉樹が
置いてけぼりが不安なのか
急ぎ足で私の後ろに流れていく
人も動物も鳥もなく樹の緑と空の青だけ
次の駅で制服らしいコートを着た
高校生くらいの女の子が駆け込んできた
向かい側の席に着くと手提げバッグから
編みかけの白い毛糸を出して一心に
赤ん坊のケープのようなものを編んでいる
誰の赤ん坊のためだろうか
カチカチカチ 棒針がぶつかり合う音がする
私は母親に会ったことがない
向かっているのは母親が生まれて死んだ街
最近まで「実の」母親がいることすら
知らなかった その街で
母親の残香を味わってみる
カチカチカチ カチカチカチ
わたしは眠ってしまった
何か物音がして 目を開けた
向かいの席の女の子が赤ん坊を抱いている
白い毛糸のケープに包まった赤ん坊は
クウクウと笑っている
柔らかい髪の毛が静電気のせいか
まっすぐに立っていた
この赤ん坊はどこから来たんだろう
このケープはさっきまで女の子が
編んでいたものなのか
私は赤ん坊と白いケープを見つめた
ピンクの毛糸の編み込みが隅の方にある
「さ く ら こ」とひらがなが読めた
「私もさくらこ…」と言いかけて
私は言葉を止めた
女の子は私を見てうなづいた
私は瞬きを止めた
私は 私の母親と赤ん坊の私と
旅をしていたのであった
列車は終点の駅に入っている
急いで棚の上の荷物を下ろして振り向くと
女の子も赤ん坊も消えていた
「さくらこ」と名前の入った
白いケープだけが
座席の上にあった
吉岡幸一「寿命の水」
バケツに入った水を両腕に持って歩いている男がいる。男は水を一滴でもこぼさないようにゆっくりと、一歩一歩確かめながら進んでいるが、道路にはこぼれた水の跡が遠くまで点々と残っている。わざわざ遠くから水を運ばなくても、途中の児童公園や、そこら辺の飲食店や八百屋や洗車場でも簡単に手に入るだろうに、男はそんなことは考えもしないように慎重に運んでいる。
児童公園の前で男はとまり、手に持っているバケツを木の根元に置く。手が疲れたのだろう。近くにいた小学生くらいの男の子がひとり駆けよりバケツの中を覗く。水しか入っていないバケツ。魚でも入っていると思ったのだろうか。男の子はがっかりとした表情を浮かべるとバケツを蹴る。一塊の水がバケツから飛び出し木の根元に水を注ぐ。ウルブルと木は鳴くと枝を震わせ、葉をふらせる。
男の子は逃げる。男は両腕でバケツを持ち上げふたたび歩きはじめる。右側のバケツの水が減ってしまったが、それでもまだ三分の二ほどの水が残っている。小さな八百屋の前で男はまた手を休める。体格の良い八百屋の店主が近寄ってきてバケツの中を覗く。不思議そうな顔をした後、どの野菜を買いたいのか尋ねるが、男は黙ったまま首を振ると、トマトを勝手に手に取り齧りだす。
顔に紫色の痣をつくった男はバケツを運んでいく。歩きつかれた男はつまずくとバケツを落す。バケツは横に倒れ水を流す。あわててバケツを元に戻したが、水は両バケツとも四分の一になっている。男はより慎重に残りの水を運び、ある個人病院の前でとまる。鋼鉄のような蔦で覆われた病院の中に入ると、男の妻がベッドに横たわっている。妻は不治の病。寿命がつきようとしている。
男は白髪の医者に残ったバケツの水を差出す。「これが私の寿命のすべてです。どうかこの寿命の水を妻に飲ませてください。そうすれば……」床につくほど頭を下げる男に、医者は冷めたまなざしを向ける。「これはただの水です。水を飲ませたところで、水分補給になるだけです」呆れたように医者は言うと、バケツの水を洗面台に流そうとする。男は医者の手を押さえ、涙ぐむ。
妻が亡くなった後も男は毎日家から病院までバケツに水を汲んで運んでいる。「どうかこの寿命の水を妻に飲ませてください」と男はいつも同じセリフを言う。拒絶することに疲れた医者は無表情で受取ると、男にわからないように洗面台に水を捨てる。空のバケツを返すと男は嬉しそうな笑みを浮かべて、何度も何度も医者に頭を下げる。医者は何度も何度も溜息をつきながら男を帰す。
いつものように男が水の入ったバケツを運んでいると、児童公園の前で妻が待っている。男は駆け寄る。勢いよく走るのでバケツの水がこぼれていく。妻の元に来たときにはバケツの水は空になっている。「これで寿命の水はなくなった」と男が言うと「あなたの寿命をたくさん分けてくれてありがとう」と妻は血色のよい笑みを浮かべながら答える。近くにいた男の子がバケツを奪って駆けていく。
八百屋の前にバケツが二個置いてある。バケツには溢れるばかりの数のトマトが入れられてある。男の姿も、その妻の姿もない。トマトは瑞々しく熟していて、今がまさに食べ頃である。体格のよい八百屋の店主は喉が渇くと、水を飲む代わりにトマトを囓る。その度に昔殴った男のことを思い出すが、店先に置かれたバケツが男の運んでいたバケツだとは気づかない。
いつも、児童公園の前に、八百屋の前に、病院の前に、点点とこぼれた水の後がついている。誰も水を運ぶ男の姿を見た者はいない。ときどきガダガダとバケツが転がるような音が聞えてくるが、転がっているバケツは何処にもない。
妻咲邦香「緑の日々」
ここに一本の棒がある
棒はずっと孤独だったので
孤独がどんなものか知らなかった
「天使になんかならねえぞ」
そう叫ぶ声が内側から聞こえたが
自分の声だとは気付いてなかった
棒は生きていた
緑になり切れなかったものが
そういう名前で呼ばれている
そういう場所に置かれている
とうに冷めた熱ではあるが
思い出せばまだ少し恥じらいがあるし
まだ少し痛い
みんな見上げるものだから
空はそういう色になった
「天使になんかならねえぞ」
「天使になんかならねえぞ」
そう口にしながらも私たちは棒であり
同時に蜜でもある
人間たちは死んでいく
自分が人間であることも知らずに
自分が人間であったことさえ忘れて
緑の日々は敗北の姿をして
谷間を流れていくのだよ
山と山の間を
ゆるゆると、一目散に
それは無情なくらいに緑だ
仲間たちは死んでいく
過剰にも等しく生き永らえて
何人も測れぬくらいの長さで
死んでいくのだよ
それが時々見えるのだよ
だからその瞬間こそは
とてつもなく虚しいのだ、よ
だって緑は緑なのだから
緑の日々はこれからも、永遠に
続いていくものだから
そこで誰かの命が尽きたとしても
ここに一本の棒がある
棒は私自身だ
棒は考える
余分な手足を広げて生きる
「天使になんかならねえぞ」
「天使になんか」
そう言いながら、か細い枝で鍋を掴む
火にかける
材料を放り込んで、それから
渡邊荘介「光油」
雨がしみついた窓ガラスに
虫が
体あたりして中の世界をめざしている
規則正しく上下に落ちて
頭をこすりつけて羽が鳴いている
とくに不快なこの時期には
湿った太陽はそこらの水気ばかりでなく
人間のからだもふやかして蒸発させるから
いのちが育つための恵み
とはいえ殻をもった生きものには容易でないと
教える羽音がする
昼間の日差しにおぼれてしまう
熱いだけじゃなくて
からだの
内側から
殻に充満していのちのもとがあばれているのだと
いのちがあふれて仕方がないから
飛ぶしかないのだと
人間も同じかおりがするから
まるで自分で遊ぶおもちゃのようで
そばにいたくなる
太陽の油が虫の背を抜けて
カーペットをひたしている
ふれてみると
虫が全身に浴びて透きとおったいのちの色が
手にまとわりついて焼けつく
大きな荷物をのせたトラックが
前の道を走っていった
部屋は床からゆれて虫は変わらず上下して
ほんの一瞬
隠れた太陽をかき集めている
いのちを少しもこぼすまいと
つよく決意している
梶本堂夏「窓から港が見える室内」
職人になりたいわけでもなく
かといって
出家したいわけでもなく
ただぼんやりした人間
であればいいと思った昼下がり
彼は灯台のことを乳牛と呼んだ
彼は冷蔵庫についた霜をレモングラスと呼んだ
彼はラジオから流れる仏語のコマーシャルを
水没林と呼んだ
そして壁にあるハンガーの影を美しくなでる──
彼は午後に平行しながら
じっとみていた
乳牛を横切る作業船を
レモングラスがシンクで溶けてゆくのを
早口に洗剤を薦める水没林を
■北原千代選評
詩と散文が互いに近寄って垣根が見えづらくなっているようですが、詩の仕事には、ある種の瞬発力が必要なのではと思います。もちろん、散文のようにじんわり効いてくる感興もあるでしょうが、イメージの閃光、言葉の断面がひらく鋭さや深さ、瞬時に読者の心を捉えて、書かれている言葉の背景の途方もなさを直感させる言葉…詩の言葉は、もしかしたら人間の思惑をこえたところで働くのかもしれません。続けて投稿をお待ちしています。
【入選】
伊勢さきゑ「風(プネウマ)」
作品のなかに風が通っています。付け焼刃ではなく、ある領域まで達した理知のペンが肉体を書くとこうなるのか、と思いました。作品は膨大な時間や哲学を擁していますが、言葉は決してそのために重苦しくならず、いっそさっぱりしています。人生を肯定する姿勢がすがすがしく、気がついたら読者もまた緑陰のベンチに座り、現世の息吹を貴重なものとして心身に感じています。味わいふかく、何度も読みたくなります。
nostalghia 「ここに来て、ごはんを食べていい」
人間の尊厳ということを、深く鋭く問いかけられました。介護施設の食事風景が目に浮かびます。食事は楽しみどころか、本人にとっても介護者にとっても苦役のようにおもわれる日常のルーティンで、時には突き放したくなることもあるでしょう、あえて感情移入を抑えたところから生じる受容を促す発語、現実が困難だからこそ、他者と自らの両方に対して耐えず言い聞かせなければいけないことがある…身につまされました。「水を飲むしぐさの誠実さで…/口のなかを見せながら食べていい。」「わたしたちは歌うだろうし、/また食べるだろう」。
広瀬ゆめの「あまてらす」
「髪に飾りをつけることをおぼえたのです」この一行ゆえに、心に残る作品です。磨かれた詩語がとても美しく、タイトルからすでに神話的ですが、心に残る詩として読み継がれていくには、あと少し、人間的な味わいというのでしょうか、美しいばかりではない雑味の要素が必要かもしれません。
石川順一「帽子」
飄々とした軽さのなかに、この世と軌道を合わせていく困難さが読み取れます。独自の文体を持つことは大切だと思います。石川さんの特長は、改行にみられる脚力の、かなしげな軽さでしょうか。「取り敢えずお前には… 忠告された」の4行から、真摯に書こうとする人の日々の努力が伝わってきます。「勇気をもって湖へ向かった」向日性も独特です。
熊倉ミハイ「失敗実験」
「それを感知した小坊主がこの部屋のすべてを」いったい、どうするのですか?破壊的、暴力的にひらかれた終行です。生命体の限界で実験に参加する科学者の、知れば知るほど迷宮入りになる恐怖がつめたく伝わってきます。知性の限界をしるのは知性ではなく、感知する生命体そのものなのでしょうか。さてどうしますか、受けてたつのはあなたですよ、と読者に投げ出しています。
【佳作】
芝田陽治「ある山の」
巧みな書き手で、どこにも綻びがなく、息もつかせぬ緊迫感です。「改行を重ね重ねて失われた意味を求めて/天使たちは君を饗宴の肴にしよう」観念的にすすんでしまうところですが、時おり現れる天使の登場で、険しい創作の道への巡礼は、天上的な音楽に伴われます。「時の弾ける音」がたいへん印象的でした。
早乙女ボブ「残夏」
「ぬめる鎖骨のくぼみで」にはっとさせられます。身体の描写にすぐれ、力のある書き手だと思います。それだけに読者の期待はさらに高まり、いっそ破れかぶれの破綻がどこかにほしい…と欲が出てしまいます。この詩は完成度が高くて非の打ちどころがなく、賑わいの外にいる実感、虚しさがよく伝わってきました。
古野千尋「出発」
しみじみと読ませる力作だと思います。賢治の作品がお好きで、何度も読むうちに賢治の世界観から影響をお受けになったのだろうと想像しました。ストーリー、音、言葉のリズム、色彩…どこかに、賢治風ではない古野さんご自身の個性が際立つ作品を楽しみにしています。
小蔀県「地平」
短く、言葉が研がれています。「光の粒子が身内に入ってくる」のは、肺腑がちくちくするようです。「散らばった/星々が/夜を空に溜めている」おや?と思いましたが星々は、夜のイメージの海みたいなのですね。この作品はおそらく、編まれた一冊の詩集のなかで光るような、そういう作品だと思います。
田口登「本を食べる」
まっとうなことをうたって詩にするのはとても難しいのですが、この詩は成功しています。「本を食べるように読んでるのが好きなんだ」冒頭からすでに、作品世界に招かれています。書物への愛が充満しています。「どうか、あなたにとっていい食事であるようにと」この願いが、一篇の詩に翼を生じさせ、多くの読者に運ばれていくでしょう。タイトルがすでに多くを語っていますから、最終連「そうやって僕らは…吸っている。」の2行は説明的に響き、もしかしたら削るほうがよいのかもしれません。
■根本正午選評
【入選】
村田活彦「!(感嘆符)」
詩には、発見があるべきではないでしょうか。切れば血が吹き出る手のひらによってのみ掘り出せる、この世界を構成する真実のひとかけらが。この詩の第一連に、そんな発見を見ることができます(「ほの暗い雲を抜けてまっすぐに落ちる/きみは夕立の最初の一滴/エクスクラメーション/ひとつの感嘆符としてきみはやってくる」)。肉眼ではけして見ることのできない「夕立の最初の一滴」を、想像力によって発見してしまうこと。繰り返される「きみ」のことを知らないという台詞は、むしろ語り手がよく知っていること、あるいは知っているのだけれど、かたることができないことを示していて、「ひとりでいるのは耐えられる/ひとりと知られるのは耐えられない」の二行にあらわれるこころの複雑さに呼応しているのではないでしょうか。第四連の、空を飛んでいるように見える(だけの)亀、第五連の、均されることのない文字としてのカラスの死骸、最終連に登場する第三者の便宜性のために使役されるミツバチは、大きな自然現象としての雨や、巨大な機械としての社会に対する自分自身の姿が投影されたものだと読めますが、そこに通底するのは無力感や孤立感であり、ばらばらに分断された私たち現代人の姿でもあると思います。作者は、それぞれの連で描かれる街並みを徒歩でゆきながら考えたことを、後になって机に戻ってから、詩のかたちに書き記したのだろうと想像していますが、第一連に置かれた(そして題名でもある)感嘆符は、詩の終盤にそっと置かれた「美しい疑問符のかたち」をした耳を、その道程で見出した作者の祈りのようにも思えました。なぜひとは「物語の外側」に出ることができないのか。なぜ「たくさんの音や色に囲まれて」いながら、そのことを知り得ないのか。答はなく、「それだけだ」といって、立ちすくむしかないのかもしれません。まっすぐな、一本の感嘆符として。
南田偵一「仮執刀」
私事になりますが、つい最近友人が引っ越しをしたので日本酒を贈りました。ただ、この詩のことばを読みながら考えるに、すべての住居は死ぬまでの仮住まいでしかなく、一時的なものでしかありませんね。というよりも、この世には一時性のものしかないのに、あたかもそうでないかのような身振りがあるといってもいいでしょう。この詩はそうした乖離について、「仮」という単語を軸に展開したものだと読みました(「愛猫が脱走してしまい、/六日後に戻ってきても、/祝いなんだろうか」)。第三連では、異なっているものを同じものように扱う身振りの欺瞞性(そして便宜)が示され(「ヒトの肌は、男、女、年寄り、若者、おんなじではない」)、最終連ではそこにある痛みをなかったかのように振る舞う偽善性(これも便宜ですね)が、麻酔という喩によって展開されています(「父は手術中、/まったく痛みはなかったと言った/麻酔が効いていたんだ」)。仮のもの、代替品でしかないことばを用いれば、そこにはひずみが生じ、痛みがもたらされる。祝は呪いであり、誰もが同じでありながら異なっており、詩は詩でしかないのに、それ以上のものを生み出そうとする。振り返ってみれば、「きっと、苦しめた」というほかありません。
高橋克知「わたしのトマト」
触感を強く喚起させられる詩でそれだけで魅力があるのですが、矛盾するものが当たり前のように並列されていることにも惹きつけられますね。例えば、湯むきされたトマトはすでに下ごしらえされており、「下ごしらえもせず、産まれたての傷口を癒やすように、ガラスのボウルの中で冷水に浸かっている」トマトは、ある作為のもとに配置されていることがわかります。また「冷たい水の生ぬるさが欲しくな」るような、二つの背反する貌が描かれてもいます。これらを踏まえたとき、詩のなかで求められているのは実のところむしろ無理解であって、「愛」という名前の理解こそが、関係性の終焉をもたらしてしまう不吉ななにかなのではないでしょうか。アンビバレンスな存在を書くことに主眼があると言い換えてもいいかもしれません。もしこうした矛盾に対して明確な答をあたえてしまえば(水は冷たいのか、それとも生ぬるいのか?)、ことばは喪われ、詩は潰えてしまう。トマトは食べられるべきなのか、それとも透明な水に漬けられたまま守られるべきものなのか……そこに答はなく、それを確認するために、毎朝の朝食の儀式がある、ということでしょうか。
佐為末利「できもの」
昔読んだおとぎ話に、ひとの身体にできた人面疽というできものが、普段は隠されている本音を宿主の代わりに勝手に喋りはじめるという物語がありました。この詩では第一連から、第三者には見えない「口」を想像力によって作り出していて、そこに魅力を感じます(「鏡の前に立ち/唇を突き出す/コンプレックスを打ち明けるときほど/子供じみたものはない/だから言わない、誰にも/下唇のうらっかわに/ぽっかりと口を開いた闇がある」)。一方で、現代には誰にもいえない本音を書くための便利な器として匿名SNS等があるわけですが、この詩はそうした姿勢とは一線を画していて、身体(やこころ)に次々に形成されてしまう口としてのできものを強いるものがなんなのか、その正体にかたちを与えようとしていることが読み取れます。<この私>と自分を取り巻く世界との間には、常にズレがある。そのズレは痛みをもたらす反面、その空隙に作られる口が詩のことばを生みだす契機になっている。隠すという行為がなければ、そもそもほんとうのことを言うことはできないからです。打ち明けることによって、理解から遠ざかる。そんな背理を前にしたとき、私たちもつい「よかったのに、な——」と、つぶやいてしまうかも。
【佳作】
末野葉「乳」
ことばの意味はどこにあるのか。そう自分に問いかけてみたとき、その意味は自分のなかに確固たるものとしてあるのではなく、私とその他のひとびとの間に浮かぶように、曖昧なかたちで存在している(そのようにしか存在しえない)ことに気が付かされます。そしてその認識はけして愉快なものではありません。「わたしには他人のためについている/乳房は無い/他人のための唇も/誰かを喜ばすためにある身体の部位はひとつも無い」は、そんな理解への苛立ちを立脚点にした詩だと読みました。第三者としての社会が私たちに強いてくることばに抵抗すること。この詩の言い方を借りれば、それはけして所有されえないものを取り戻そうとすることでもあるでしょう(「彼女のものはすべて彼女の存在のためにある/彼女の体内の組織が噛み合って働いて/ずっと続いていくために そこにある」)。
卯野彩音「寂光」
夏の小道を散歩すると、たくさんの生き物の死骸が転がっています。その死因は様々ですが、目を引くのは自分より大きなもの(人間や乗り物)によって命を落としたものたちです。抗うことのできない巨大な歯車による死といってもいいかもしれません。理由の無い死に満ちた場を、この詩に倣って混沌と呼んでみたい気がします。「いくつもの混沌は去り/鮮明な記憶だけが雪の塊のように輝いている/光の子どもたちが/その塊に群がると/白い閃光を放ち/シューと言いながら消えていった」。子どもたちが消えるのに理由はなく、ただ消えてゆく。雪が溶けるように。淡々とかたられる光景が残酷なのは、そこに理由がないこと、繰り返されていること、生まれ出ようとすることそのものに死が包含されていることに、書き手がきわめて自覚的だからではないでしょうか(「子どもたちは/保護膜を自らの手で破り/パチンパチンと生まれ始めた」)。
広瀬香「雨の日」
雨はひとを感傷的にし、内面的にしますが、それは雨音がひとを記憶の球体に閉じ込める役割を果たしているからかもしれません。「遠い遠い「はじめて」がよみがえる。/はじめて 自転車に乗れた日/はじめて買った/母の日のカーネーション。/はじめて 書いた手紙。/はじめて見た 外国船。」、これらはどれも記憶から拾いあげられた初めての(個人的な)瞬間たちであるはずなのですが、詩となって読者の手元に届くとき、それらは個人的な思い出であることをやめて、それぞれの読者のかけがえのない瞬間を喚起する触媒としての働きを果たしているようです。なんの関係もない第三者の記憶から偶然のように導きだされる読者の「はじめて」。その詩的な効果は音の届かない水底に沈んでいるイメージ、削除されてなかったことになる気持ち、思い出せないものを思い出そうとする書き手の切なさなどによって強められていますね。最終連、「雨が降っている/ただそれだけで。」は、書き手がふいにたどり着いてしまった二行でしょうか。存在しえない詩の雨が降っています。
いっきゅう「ほんとうのこと、」
私は家でミニトマトを育てているのですが、鉢を見ていると、植物にも表情があり、毎日変化することがわかります。植物には(人間と違って)「ほんとうのこと」がある、と言いたくなりますね。もちろん、それは間違いであって、この詩が見抜いているように、ひとが生産する嘘と偽りがなければ、ほんとうのことなどはなく、むしろこれらは表裏一体であり、分かちがたくひとつのものなのです(「裏も表も 無い、なくなっちゃった 初めから無かった/ひっくり返って またひっくり返って そして前へすすんでいく/パタン パタン おもて うら うら おもて ・・・/どっちが ほんとう? くっついて剥がせない いいかな」)。書き手はこの表裏一体の関係性について、様々な事象を用いて書き記してゆきます。最後の二連で、書き手はこれらについてかたることができないことこそが、ほんとうのことだという結論を見出します(「言葉では捕まえられない 言葉のあいだをすり抜けて/言葉で遊んでしまうの、壊れてしまうの、すっと消えて またあらわれて 泡になって 光って、きえていく 気のせいのような ほんとう/それがきっと ほんとうのこと、)。最終行が読点で終わるのは、書き手が発見したものが、この詩を書かしめたからだと思いました。「死んでいくほんとう」に触れるために、読点を超えた先へ導くこと。
八尋由紀「ペトリコール」
ペトリコールは、雨が降ったときに有機化合物が発する匂いということ。第一連、「ふんいき、/粘着質な雨、/わたしの背が/少しだけ低くなり/過呼吸になりかけた朝」で始まる不穏な光景の背後から、雨の匂いが立ち上がっています。「私が重たい/から/さすってもらった分/削ぎ落ちてゆけばいい」から始まる第二連は、その光景から回復する途上にあることが示唆されつつ、「しかし(解放)という言葉の企みを/忘れてはいけない」と、安易な回復がありえないことも念押しされています。私はこの詩で「重さ」や重力によって下方向に引っ張られているものを、傷や世界の残酷さに対する認識であるという読みをしました。そして雨と雨の有機的な(「粘着質な」)匂いは、ここにいる私と離れた場所にある若鶏を絞める屠殺場を想像力によって繋ぎ、あるいは知っている「私」と知らない「わたし」を繋ぐ役割を果たしていますね。香草を刻んだ調味料に漬けて焼いた若鶏はきわめて美味ですが、それを食すことは料理の芳しい一皿を実現するために行われる行為の「重さ」を引き受けることでもある。その理解をもたらす雨とその匂いを優しく受け止めるために、作者は傘をさしてはならないと書くほかなかったのではないでしょうか。
■渡辺めぐみ選評
【入選】
メンデルソン三保「白いケープ」
北に向かう急行列車に乗り込んで眺める車窓の景色や車内の現実の光景が、眠り込んで目覚めたときから、幻視した光景に成り変わる。現実と幻想を、車内でケープを編む女の子の編み棒のカチカチという音が繋ぐ。会ったことのない母が生まれて死んだ街へと向かう作者の願望を満たすかのように、女の子に抱かれた赤ん坊が登場し、母に抱かれた赤ん坊だった頃の自分だと気づく。その展開感が見事である。終点の駅に着くと女の子も赤ん坊も消えケープだけが残されることで、生き別れた親子の切なさが残る。
吉岡幸一「寿命の水」
不治の病で寿命がつきようとしている妻の入院する病院へ両手にたっぷりと水の入ったバケツをさげて一生懸命水を運ぶ男の苦労を描いているが、この作者は他の投稿作品でも生の原理にできるだけ感傷を排して迫ろうとする傾向がある。「これが私の寿命のすべてです。」と述べる男の水を運ぶ真意を妻の主治医すら理解できずただ流して捨てようとするが、妻が「あなたの寿命をたくさん分けてくれてありがとう」と感謝するところが心に残る。人間の行動の価値はこの世的な価値観で実利的にのみはかられるべきではないと言っているかのようだ。様式美を保つような独特の筆致も印象深い。
妻咲邦香「緑の日々」
詩的な詩行に満ちた詩であり、一本の棒に焦点を当てて棒の声を引き出してゆくところに惹き込まれる。特に「ここに一本の棒がある/棒はずっと孤独だったので/孤独がどんなものか知らなかった/「天使になんかならねえぞ」/そう叫ぶ声が内側から聞こえたが/自分の声だとは気付いてなかった/棒は生きていた//緑になり切れなかったものが/そういう名前で呼ばれている」という第1連及び第2連の初めまでの詩行が秀抜だ。また、「天使になんかならねえぞ」という表現が本作品には4度繰り返され、屹立している。そのヤクザな宣言と棒の宿命を説いた文脈との違和も面白い。
渡邊荘介「光油」
虫を観察し心に受け止めただけの詩なのだが、細かい観察眼とポエジーのある表現に魅せられる。虫の姿を綴った「雨がしみついた窓ガラスに/虫が/体あたりして中の世界をめざしている/規則正しく上下に落ちて/頭をこすりつけて羽が鳴いている」、「ほんの一瞬/隠れた太陽をかき集めている/いのちを少しもこぼすまいと//つよく決意している」という詩行や、「いのちがあふれて仕方がないから/飛ぶしかないのだと/人間も同じかおりがするから/まるで自分で遊ぶおもちゃのようで/そばにいたくなる」といった虫に注ぐ思いの詩行が瑞々しく、小さな命の現場から世界が広がってゆく。
梶本堂夏「窓から港が見える室内」
日常生活に埋没している人間を覚醒させる不思議な活気のある作品である。「職人になりたいわけでもなく/かといって/出家したいわけでもなく/ただぼんやりした人間/であればいいと思った昼下がり」が作者の新たな名づけによって変革されてゆくところが鮮やかだ。既成概念が打破される。「彼は灯台のことを乳牛と呼んだ/彼は冷蔵庫についた霜をレモングラスと呼んだ/彼はラジオから流れる仏語のコマーシャルを/水没林と呼んだ」作者の感受性によって新たに付与された名前は意外性を孕みつつも何かしらの物語を想起させ、理屈抜きで納得させられる。
【佳作】
嘉藤周「時計の針」
水や空気のように自明のこととして意識に上らない時計の針に殺される者たちを並べて見せる着眼点に惹かれた。「時計の針は大して尖ってもいないのに/なぜ針というのか/それは遅延中の汽車の運転士を/〆切前の作家を/遅刻秒読みの女子高生を/刺し殺しているから」鋭利な詩行は時間に追われる現代社会の構造を風刺してもいるのだろう。「時計は今、十二時十分を刺している/今どこで誰が刺されているだろう」という最終行で「指」が「刺」に置き換えられ、現在進行形で時間に殺されてゆく世界の誰かを想起させるところに時代性がある。
田中綾乃「清貧」
理念的な問いかけの言葉からなっているが、不条理な不合理な今生の社会を真剣に生きている者たちの心の琴線に触れる作品である。「貧しくなれば/あなたに近づけるのか/神よ ここでは/貧しい人ほど/だれかを苦しめることでしか/地球を痛めつけることでしか/生きていけないのです」という作者の嘆きの断定調が、当たり前のようでいて書かれることにも意味があると思わせる語り口をこの作者は持っている。「神よ それでも/わたしの手は清いですか/わたしの口から出る歌は/清いですか」という終わり部分の問いかけは、声楽家としての自身の生き方への自問となっていて力強い。
H・ell「俺(わい)の賛美歌」
雄の野良猫が雌の野良猫に次々と恋をし、どのような手口で近寄って子供を産ませていったかを、雄の野良猫の気持ちになりきって方言を使って面白おかしく語って見せた作品だが、全くだれず一気に読ませる。「俺(わい)、鼻長いやろ?」/すると、三毛(みけ)は鼻でフンと笑いよった。/鼻を鼻で返すなんてあんまりやろ?/わい、こう見えても一途やねん。」の詩行のようなリズム感のあるテンポの良い雄猫の語り口に可愛さとユーモアがあり、読んでいて楽しい。
河合宏「関くん」
イジメを受けた小学生の自死を同じ小学校に通っていたと思われる作者が後年回想した作品だ。最小限にしか語らない作者の回想方法が後半の最期の場面で詩的な空間を創出し、いじめられた子供への単なる同情ではなく、その子供の生の尊厳を高めることに成功している。また前半の「ちょっと頭が足りなくてズボンがキツキツ/みんな「関ブタ」とか呼んでた/イジメだよね でもいくらイジメられても/関くんは気にしない すごい特技があるから/腰に毛皮をぶら下げたおじいちゃんが/大きな皮の手袋に眼光鋭い「蔵王丸」を乗せて/教えてくれたんだ/関くんもなんとか「蔵王丸」を飛ばしてた/すごいだろ」という詩行の過不足のない説明に、作者の死んだ学友への優しさがこもっている。
村田活彦「!(感嘆符)」
作者のもとに落ちてくる夕立の一滴を「きみは夕立の最初の一滴/エクスクラメーション/ひとつの感嘆符としてきみはやってくる」と捉える作者の発想に感銘を受けた。また、地上に侵入してくる夕立の一滴についての「不思議そうにあたりを見わたして/たくさんの音や色に囲まれていることを知る/きみの耳は美しい疑問符のかたちをしている」という詩行には雨の身になった落下の衝撃と感動が美しく表現されている。「きみはここにいる/俺はここにいる//それだけだ」という終わり方も淡々としていて、人間と自然現象との程良い距離が清清しく伝わってくる。