詩投稿欄

日本現代詩人会 詩投稿作品 第26期(2022年7月―9月)入選作・佳作・選評発表!!

日本現代詩人会 詩投稿作品 第26期(2022年7月9月)

厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。

 

■山田隆昭選
【入選】
加澄ひろし「相模川」
遠野一彦「まど」
若井 芳昭「雨」
河本瞳「髪を切る」
守屋 秋冬「超える」

【佳作】
竹井紫乙「蜘蛛」
吉岡幸一「聞く人」
勝部信雄「はったつ」
帛門臣昴「腐りたい」
涼夕璃「むし」 

■塚本敏雄選
【入選】
竹井紫乙「蜘蛛」
渡辺芳則「ボンネットバス」
酒井花織「選ばれし子供」
有門萌子「命名以前(20w4d
岡謙二「未明に」

【佳作】
村口宜史「今生の花」
河本瞳「霧雨」
加澄ひろし「相模川」
岩佐聡「淡水魚たちのいいわけ」
南田偵一「くちなしのはな」 

■草間小鳥子選
【入選】
妻咲邦香「沈黙」
河上類「海峡より」
村口宜史「今生の花」
臥婁幸「坂の街」
田口裕理阿「風力観音」

【佳作】
杉浦陽子「白い待合室」
遠野一彦「まど」
岩佐聡「淡水魚たちのいいわけ」
相明麦秋「夏の日」
藁科佑輝「KANSO

 〈投稿数323 投稿者187

 

加澄ひろし「相模川」

 

年老いたあなたにせがまれて
川魚料理の店に集まった
道を外れた森の奥の
川と山を臨む、鄙びた店
三十年ぶりに顔を合わせる三人が
膝を突き合わせ、あなたを囲む 

まだ若かった僕たちに
仕事のイロハを教えてくれた
聞き慣れていたあなたの声は
しわがれて、艶を失っているけれど
想い出を語る瞳の色は
あの日のまま、透きとおっている 

滔々と流れる相模川
砂利の採取に沸いたむかし
汗を流した日々の話を
とりとめなく、あなたは語る
この店を、帰宅を急ぐ道にみつけて
幾度となく、伴侶を連れてきたという
ここ久しく一人ぼっちのあなたは
さびしげに、目を潤ませる 

延々とひろがる水田の青い葉が
真夏の日射しに揺らめいている
用水沿いの一本道を
ダンプの列が、土埃をあげたという
堤防のむこう側、丹沢大山がそびえている
あなたの記憶と違っているのは
虫食いのような開発の成果と
山裾を走る高速道路の曲線模様 

みな、あの頃の表情を浮かべ
あの日の口調で語っている、けれど
僕ら三人は、あの頃のあなたの歳を越え
散り散りだった日々を語る
ただひとり、あなただけが
思い出話に終始している 

奇跡のような今日の出会いは
過去を偲ぶあなたのおかげだ
相模川は、また思い出になるけれど
語り合う日のあてもなく
あなたの明日はおぼつかない
四人は、いつしか黙りこんで
水面を照らして、山に落ちていく
夕陽のまぶしさを眺めていた 

 

遠野一彦「まど」
 

わたしは 知っているのです
暗いひとつのまどが
わたしを じっと見ていたことを 

生まれてから いままで
そして 死ぬまで
わたしを 黙って 見ていることを 

まどの見る風景は
音もなく 色もなく
風もないのに 旗がゆらめいているのです 

晴れた秋の日なんかに
大好きな蜻蛉の羽に みとれていても
はっと 気がつくと
やっぱり まどは わたしを見ているのでした 

あのまどは 知っていたのです
すべては 決まっていたことを
すべては 何にもならないことを
すべては 景色だということを 

そうして まどは
わたしが生まれる前から
わたしが死んだあとまで
ただ 見ているに違いないのです  

暗いひとつのまどが
わたしを 見ている

 

 

若井芳昭「雨」
 

一滴の雨が眼鏡に落ちて
視界がじわっとにじむ 


雨だ 

障子戸を滑らせるような音とともに
初秋の雨がさあっと向かって来る

縫い留めるように細く
忘れ物みたいに青い空から 

苔むした境内に人影はなく
静止した風景に重ねていく
銀色の擦過音を雨が重ねていく 

如意輪観音の微笑みに
地蔵菩薩の丸い頭に
すり減った石畳みに
色あせた縁起の看板に
忘れ去られた人々の上に 

百日紅の花に
名前を知らない下草に
軒先の野良猫に
夏の虫の亡骸に
傘を取りに戻る僕の肩に

 

 

河本瞳「髪を切る」 


豆電球がぼんやりと
私達の部屋を浮かびあがらせている 

この部屋で鍋もして
ワインの瓶も空にして
こたつでうたた寝もした 

なのに今オレンジ色の暗闇の中では
見知らぬものばかりが
わたしをじっと見つめる 

介護用おむつの形をして
震えた文字で書かれた日記の形をして
民間療法の分厚い本の形をして
長い間畳んだままの布団の形をして 

それは「死の影」 

あなたはこの暗闇でひとり闘っていた
髪が抜け落ち
歩くのがやっとになっても 

私は洗面台で髪を切った
あなたの気持ちに近づきたくて
もう一人ではないと言ってあげたくて 

髪を切り終えた頃
私は泣くのをやめていた

 

 

守屋秋冬「超える」



だと
思った 


では
なかった  

すれ違う
はずもないのに
振り返る  

忌日が
近づくと
空似が増える 

あれから
いくつも夏が
過ぎたというのに  

十月になったら
私は
母を超える

 

 

竹井紫乙「蜘蛛」

通勤時間が過ぎ、ほとんど乗客がいない特急列車に乗り合わせたのは一匹の蜘蛛
蜘蛛は静かで動きもデリケートだから
私は車窓のカーテンを引いてしばらく目を閉じた

下車した終点の駅にも人は少なく
餅菓子を買いたいけれど商店街はまだ薄暗い
エスプレッソで目を覚まそうと珈琲店へ入る
蜘蛛は静かについてきて古代の案内を申し出てくれた
「今の季節は鹿の毛がいちばん美しいんですよ」
そんな季節があるなんて知らなかった
毎年美しくなれる季節があるなんて
私の毛が生え変わる季節はいつなのだろうか
三年前に生え変わったような気がするけれど
そろそろ古い毛がもわもわしてきているような気が

古代には二十年前にも来たことがある もっと前にも何度も
久しぶりの古代はなんだかこざっぱりとしていて
すこし胸がちくりとする感じ とはいえ
建ち並ぶ塀は相変わらず朽ちてしまいそうでいて朽ちず
瓦は壊れそうでいて壊れず 瓦の影はきれいに整列し続けている
「いつでもいつまでも夢を見続けているのですよ」
「皆殺しにされた日のことを残し続けているのですよ」
「剥ぎ取られ彩色された背中の皮を見せ続けているのですよ」

祈りは風鈴の音に似ていて 鐘の音は現実を引き戻す音
誰もいない真白な道を蜘蛛と黙って歩けば
両側の道では梅の実がぼろりぼろりと落ちてゆく
道の先には背の高い古代が立っている
立ち続けている
一切を引き受けて
背の高い古代も蜘蛛も泣いたりしない

昼食に冷たいそうめんをいただいた
風が抜けるとき古代はそこにいるけれど
にんげんには風鈴を鳴らすことはできない
実のところわたしたちには祈る資格もないのかもしれない
それでも跪くための場所だけはいつまでも朽ちないままで
風鈴の音を待ち続けている

「なにしに来たの」と問われれば
「祈りにきたの」と答えるしかなくて
むかしたくさんのひとが殺された場所で
お菓子を食べてお茶を喫む
あちらこちらでお金を落として 頭を垂れて
風鈴の音を待つ

蜘蛛は途中で消えてしまった
祈りは風鈴の音に似ていて 鐘の音は現実を引き戻す音
日が暮れてしまう前に祈りの場所は速やかに門を閉ざす
闇は掛け値なしのほんものの闇だから
急いでにんげんだらけの電車に乗ろう

 

 渡辺芳則ボンネットバス

背高の
雑草に囲まれた
ボンネットバス
風雨にさらされ
錆びついて車輪はない
旧暦の歳月が
隔てる土ぼこりの窓

あの人も
そしてあの人も
このバスに乗っていた
うつむくように座り
口ごもる面影に
思わず眼をそらす
閉ざされた過ぎ去る時間

このバスに乗り込むには
帰路を捜すには
引き戻され
かつての
バス路線を辿れば
まだ見ぬ古びた街路図に迷い込む
そこは
大勢の死者が行き交う街
ある者は
定刻のバスに乗り込み
バス停に沿って
後方へと運ばれる

月も星もない
バスの終点だろうか
歳月が幾重にも
重なる層状の長い斜面
その斜面は何本も
腐食したバス停の標識が
打ち込まれている


酒井花織「選ばれし子供」


お母さんがお皿や茶碗をぶん投げる
ガチャンガチャンと食器が割
また始まった

花織、行くわよ」
お母さんはいつものように
ひときり暴た後
幼い私を連てバス旅行に行く
お父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも黙って見てるだけ
私は内心得意だった
お母さんに選ばれるのはいつも私
私が一番愛さているんだ

夕方までお母さんと私は小旅行を
何事もなかったように家に帰る
辛抱強く温かく優く接す
いつか改心する
がお父さんの信念だから
お父さんは文句ひとつ言わず
お帰り と言う

選ばれし子供
あの頃の思い出は私をいい気にさせた
お母さんが大好きだった

怒った母親の旅先が
自殺の名所と気づくまでは

 

 

有門萌子「命名以前(20w4d)」


だれかに呼ばれた気がして夜中に目が覚めた
窓の向うはまだ暗い
布団の中で耳を澄ましてみても
えるのはいつも通りの子どもたちの寝息
さっきまで見ていた夢がもう思い出せなくて
ふたたび目を閉じると
お腹のなかの子がすし動いて主張した
そうだった、名前だった
まだ会ったとのない
あたらしいひとのための名を考える夢だった
ような気がする

なにかに名前をつけるとき、いつもためらってしまう。他所から与えられたものがそのひとまたはもののほんとうであるわけがないだろうと思う一方で、ほんとうのとろに近づいて呼びたいといつまでも手を伸ばしつづけている。出生届は氏名を記入して出生日より七日以内に役所に提出してください。生まれてから七日目の夜はお七夜です。毛筆で命名書をしたためあたらしいちいさなひとの横に並べて一緒に写真を撮ってもいいでしょう。れから呼ばれるための名前を披露してください。その音が、その文字が、その意味が、そのひとを呼ぶための名前の世界にください。

舞い踊るひらがな
音の波がちいさく弾けている
その空間を浸すように意味が泳いでいく
鳴りながらひともじずつ連なり
意味を巻き取ってうつくしい音色で
ひらひらと昇っていく
やがて見えなくなって
願いは祈りになり守りになって降る
いつもどからか
えない音で呼ばれている
いつもどからか
見えない光に降られている

あたらしいひと。お腹の中で動いているきみはまさにいま呼ばれているんだろうか。きみのものだと思われる呼び名に私が辿りつくまでの夜明け。眠気はすでにどかへ行ってしまった。聞えないはずの、けれどもずっと知っていたような、そのひととその名が吸いつきあうような、夜のなかでひとり目を開けて夢の続きを探している。その名がそのひとを呼びつづけるための響きをください。舞い踊るひらがな、音の波がちいさく弾けて空間を浸すように意味が泳いでいく。あたらしいひとも泳いでいく。ひともじずつ鳴りながら連なり、ちいさな手足となり、意味を巻き取ってうつくしく、まるくなってゆっくり昇っていく。やわらかな手が握っている、あの一筋は朝日だろうか。

呼ばれるたびに
その向うで
かすかに鳴って廻りつづける
そのひとのためだけの
その名のためだけの

 

岡謙二「未明に」


ここはまず海があった
海は万物が訪れては帰る道であり
海風は骨を白く輝かせ砂糖黍畑をそよがせて
島を抜けまた海へ帰る
君よ
東シナ海沈む夕陽を見つめて溜息を漏らした君は
背後も広がるだろう海を知っていた
太陽は海から生まれ
死ぬということを

そうだ
ぼくは君を抱いた夢を見た
潮騒の聞こえる小さな部屋で
化粧を落した君の唇
汗の滲んだうなじ
まだ弾力のある胸や太股
飽きもせず口付けて
君は声を殺して悲鳴を上げた
この部屋は膨張する宇宙となり
いつかふと収縮して潮騒が戻るころ
君は呟いた
「もう行かなければ」
どこへ?
厳しい顔を上げてぼくの知らない遠方を見つめ
君は脱ぎ捨てた服をひろった

OKINAWA
この石の道は海で断ち切られ
君の叫びは今も耳焼き付いている
別れも告げず立ち去った君の
ときおり洩らす怒りは溜息似て
おしかかる権威の力を削ぐことはないしても
その歌は
いつもOKINAWAの空通じている
君は海むかって歌う
歌は微風となり陽光となり
ぼくの閉じたまぶたを濡らす
さらさらと風梳かせる君の黒い髪の
触感までも鮮やか残されたまま
まどろみながら訪れる朝は
光弱いTOKYOの色彩驚いて
ぼくはふい目を覚まし
また声もなく泣くのだ

 

妻咲邦香「沈黙」


はっきりとは言えませんが、薄い膜のようなもの
例えるなら下着です
常日頃身に着けてますが、意識することはありません
ただ、簡単に風に吹き飛ばされます
雑多なものの集合体ですが、音声としては意外と五月蠅いです
刃先が鋭く、途切れることはありません

早い話が「現在」のまた現在
つまり句読点の変貌した姿です
誰かの手から零れ、そのまま黙って受け取られるものなの
また、そうせざるを得ない非常に繊細で扱い辛い存在です

自問自答は日常のこと
それは容易く信頼を口にします
例えば、夕食の献立と天文学の新発見が同時に提示されたりします
最新の踊りのステップとスマホの地震速報が目まぐるしく入れ替わります
それでいて最も必要な事柄は一番最後に来るのです
気になる人に限ってなかなか夢には出て来てはくれません
最初に正しいと決めた人の言うことにただ従っているだけなのです
本心では疑っています
でもその人といつか一緒に暮らしたいと思っているので
従うことは止めません
はい、練習を続けます

誰もそれが偏見であると指摘出来ないのです
本当の沈黙は叫びの中にあります
地面が割れて、町が飲み込まれ
それが実は誰かの望みであったと知った時に
チリンと小さな鈴のような音を聞くでしょう
そして私はその叫びの来た方に向き直り
私の中の町を散歩するのです
愛してるよと
愛してるよと
歌うように呼びかけながら
逃げ惑う人々を捕まえてはひねり潰す
私こそが沈黙で、それは全く恐れるべき生き物です
けれど下着を着けています

はっきりとは言えませんが、それは継承者を欲しているようで
さっきから声を押し殺し、嗚咽を繰り返しているのです
沈黙の正体はまさにそれです
連続テレビ小説を観た後に、ついでにワイドショーも観てしまう
だから芸能人のスキャンダルには詳しく
冷蔵庫にはまだイチゴ大福が残しておいてあります
これこそが沈黙の真の姿です
間違ってても一向に構いませんけど
もうアルバイトに行く時間です
こう見えて結構忙しいんですよ

 

河上類「海峡より」


より吹き来る風が、私たちをことごとく沖へ呼び戻していく午後には、岸壁になびく無数の黒い旗が、うつくしい近代を打ち立てて、おそらくこの域は、一つのterminalとして機能していることだろう。度重なる風雨にさらされた私たちの船には、たくさんのうすよごれた窓があり、そのひとつひとつに人びとの幻想が手垢のごとく貼りついている。遠くに見えるあの浜辺へまっすぐ両腕を伸ばすとき、千のかもめがいっせいに飛び立って、空が白く鳴いて、だから私たちは喝采を上げる。

岩礁に打ちあがった魚の群れ、その黒々とした数多の目玉が、正午の太陽と素朴な相似形をなしているときには、青緑色に光る彼らの背のために、やわらかな寝台が用意されることはない。魚群という意志の束が、加速する矢として流の終端に達するとき、そこでいっせいに花開き、そして中に霧散してしまう。はじめからそこには魚も血もなかったのだ。代償として私たちは定規を次々とへ投げ込まねばならなかった。すると魚たちはもう戻っては来ないけれども、正午の太陽は明日もまたやってくる。

そうだ、私たちは利き腕を繰り返し喪失してきた。そのことは私たちにたしかな地平を与えるかもしれなかった。毎晩のようにやってくる鈍痛は、私たちをやさしく抱きしめて、そしてその腕のなかで角砂糖の夢を突き崩していく。浜辺で野良犬が吠えていて、月は欠けることを知らない。

渦は固体として記憶を持たないことに注意せよ。私たちの小さな船が、灰色の渦と対話をはじめるとき、船の軌跡は計画された点描として、渦の外部でも内部でもないある地点へと向かっていく。帆が潮風のなかで形を変える速度に合わせて、私たちはへ投げ入れた定規の枚数をかぞえている。次の渦を待て。次の渦を待て。次の、渦を、待て。この渦が消えればまた新しい渦がやってくる。私たちは空に両腕を伸ばし、また利き腕を喪失しつづけて、そして、次の、渦を、待て。

 

村口宜史「今生の花」


日盛りに
襖を開くと千代香さんが
座っていて
懐かしいですね
その浴衣と云うと
宗次郎君
んも、気づかへんかったんやね
と、云われ
ああ、私
ずいぶん昔に死んでおった
と、今更がら気づかされた
んや、えらい懐かしい気分やと
、氷菓子を口に運ぶと
ふと、蟻の一匹が
畳を這うて
誰かが、千代香
おったんかいと云う声に
私の踝に触れる
波の音だけがする
鼻緒、切れたまんまやわ
と、血の色が湧く

 

臥婁幸「坂の街」



電柱が並ぶ
が多く
海がないのに
塩の匂い、幻覚
駅の陸橋に下校途中立ち寄り
目を瞑り
無い海を眺めた
冷たい風が山から下りてくる
錆びた灯が光りだす
今日の痛みも
明日への憂鬱も
今だけ一瞬海に溶けた
は大海原を漂うのだ


終始前向きな穂先が
風を受けてそよいでいる
自分を見るということは
人を見るということに過ぎなかった
雲の上の雲、青い空に溶けた
羽毛の布団、ジャスミンの香りがした


重要なことは風を読むことだと君は言った
道ばかりのこのでは風は上下から激しく吹く
空の雲を見れば、風を見ることができる
君は高いところが好きだった。上を向いていた。
私はずっと空を見ていると吸い込まれるような
落ちていくような気がして、めまいがした。
風を見ていよう、明日も。

 

田口裕理阿「風力観音」


八十年代に拓かれたは「道」
であったから、太平洋から東風を避けるように 
東風は我々を割くようにして
水田に植えついた説得力
上空、雲に染まる感応風車は三十人漁師により作られた
          そ頃はまだ、小さな孤島日々であった
虹色飛行模型、大切にしていたは生前だったか
風に強い浮世に鉛を掲げて空を劈く

建設はイデア精神に伴って行われた
孤島は永遠に解放を望むことなどないだと
イデア精神に基づいて建設された亜宮殿、塔やスロットが潮風に洗われ
観音のみを見出す頃には
住人は現代社会イコンとなり、
人間的な完成を迎えることはない
           永遠に解放を望むことなどない
彼らは風信者である
いつ日からか、風に支配されている

00年代に残されたそ轍は
風車観音が灯す光は
道と風交差地点
陸に上がった魚
海が恋しくなってしまった 東風

 

 

 

 

◆山田隆昭選評
【入選】
加澄ひろし「相模川」
ひとりの先輩が、三十年の時を経て来し方を語ります。時間の経過は、ひとや風景に豊かなものを積み重ねる一方、さまざまなものを削り取ってゆく残酷さもあります。その流れに乗っていることが人生ということなのでしょう。そのように淡々と語られる諸相と、それを聞きながら四人が料理を囲む様子を思い描くことができます。良質な映画のワンシーンを観るような詩です。

遠野一彦「まど」
よく嚙み締めて読むと、ちょっと怖い詩です。ぽっかりと口を開けている暗い窓に、常に見られているという感覚。あるいは、部屋から外を見る自分が窓ガラスに写ることによって、写った自分に見られる感覚でしょうか。〝まど〟という、外界との通路としてあるものが、自分を見ています。見るものと見られるものの重層性を抱え込む己の精神の奥処。こうした抽象的な感覚を、窓という具体的なものをとおして描き得た詩です。

若井芳昭「雨」
この詩は、前触れもなく降り始める驟雨の軽やかな響や、雨の匂いさえ感じさせてくれます。〝障子戸を滑らせるような音〟〝縫い留めるように細く/忘れ物みたいに青い空から〟と、驟雨の特徴をよく捉えています。このような降り方で、この世界のものたちに等しく降り注ぐ一瞬の雨。その雨に打たれるものたちが背負う永い時間。その対比が印象的です。静かに、染み入るような詩です。

河本瞳「髪を切る」
一緒に日々を過ごした事実の積み重なりと、その人がひとり病と闘う事実。そうした事実が、この詩の底流にあります。恐らく癌治療によって髪の毛が抜けてしまった〝あなた〟に、重くのしかかっていた苦しみを想います。“私〟は髪を切って、〝あなた〟と痛みを共有しようとします。他者の痛みに思い至らない現代の風潮にあって、この姿勢は貴重です。感情を抑制することによって、その切実な思いが迫ってくる詩です。

守屋秋冬「超える」
亡くなった母へのおもいは、募るばかりであす。そのおもいの強さが思い違いを助長します。いや、母であってほしいという願いがそうさせるのかも知れません。その複雑な心理、だれしも抱くことがあるであろうおもいが、淡々と語られます。その想いを背負って、ついに母の年齢を超えるに至ったひとの、哀切にみちた詩です。

◆塚本敏雄選評
26期もたくさんの投稿ありがとうございました。

【入選】
竹井紫乙「蜘蛛」
同じ作者による他の投稿もありましたが、この作品がずば抜けて良いと感じました。読み進むにつれて、ますます面白くなっていく点が素晴らしい。つまりスピード感もあると思います。連から連へのジャンプも適切な距離感があって、面白い。

「ボンネットバス」(渡辺芳則)
廃棄されたボンネットバスに乗り「かつての/バス路線を辿れば」、「大勢の死者が行き交う街」に出る。たんたんと描いていくところが素晴らしいと思います。

酒井花織「選ばれし子供」
最後の2行にあるどんでん返し。巧みだと思います。こういう詩の場合、あまりにも悲惨な感じになると読者が引いてしまいますが、この詩は、悲惨さはなく、軽いショックで終わっているところが良かったと思います。

有門萌子「命名以前(20w4d)」
作者は、現在妊娠中。妊娠、出産とは、不思議な世界です。神秘と言っても良いでしょう。つまりここには「詩」があります。さらに、生まれた存在に名前をつけること。これも不思議な行為であり、ここにも「詩」が満ちています。それらを言葉で掬い取り、詩の形に昇華させた作者に賛辞を送ります。

岡謙二「未明に」
言葉の連なりがそのままうねりとなって詩になっています。それは言葉に力があるからです。それが強度というものだと思います。「別れも告げずに立ち去った君の/ときおり洩らす怒りは溜息に似て/君におしかかる権威の力を削ぐことはないにしても/その歌は/いつもOKINAWAの空に通じている」
ただ、タイトルに工夫があれば、もっと良かったかなと思いました。

【佳作】
村口宜史「今生の花」
不思議な魅力があります。この場合の「不思議」とは、もちろん褒め言葉です。良い詩はどこか不思議な雰囲気を持っているものです。その反対は「理に落ちる」というものです。惹かれました。ただし、行の切り方を変えた方がよいのではないかと、その点だけが気になりました。

河本瞳「霧雨」
たんたんと雨の情景を描く。小さな世界に降り注ぐ霧雨をひたすら描くこの詩は、好感が持てます。佳品と言えましょう。

加澄ひろし「相模川」
かつての、仕事上の上司を囲む三人。この詩の美点は、相模川というロケーションであり、相模川に面した川魚料理店という舞台設定です。中原中也の「冬の長門峡」がそうであるように。

岩佐聡「淡水魚たちのいいわけ」
惹かれるフレーズがたくさんありました。それでも、入選に出来なかったのは、これほどまで言葉を繁らせる必要があるのかと思ったことが一つ。もっと剪定してコンパクトにしても良かったのではないかと思います。もう一つは、魅力的なフレーズを作るために、言葉のコロケーションをずらしていくわけですが、やり過ぎと思えた箇所がいくつかあったことです。それでも、作者が実力ある書き手であることを十分に感じることができました。今後に大いに期待します。

南田偵一「くちなしのはな」
この詩と、もう一つの投稿詩「父ちゃんの帽子」とどちらを選ぼうかと迷いましたが、詩としては「くちなしのはな」の方が面白いと思い、こちらにしました。「父ちゃんの帽子」は、読んでいて、長谷川龍生の「王貞治が6番を打つ日」を思い出しました。「南海」という懐かしい球団名を目にしたからかもしれません。どちらの詩も、もうひとひねりあったら良かったなと、残念な思いがしました。

【選外】
たるのとしき「蜂について」
投稿規定にある行数を逸脱しているため選外としましたが、一言言及します。この作品にはこの長さが必要だったのかなとも思いますので致し方なく選びませんでしたが、読ませる作品です。終わり方も良いと思います。選べなくて残念でした。

◆草間小鳥子選評
読み応えのある詩が多く、刺激をいただいた。しかし、タイトルに違和感があるというか、もっと詩の魅力が伝わるものがあったのでは、と感じてしまう作品も多かった。わたし自身、タイトルをつけることが苦手で、詩誌に投稿していた時代に選者から「タイトルが勿体ない」と評されたことが何度かあった。「タイトルは詩の一行目である」という人もいる。タイトルの付け方に王道も正解もないと思うが、詩の内容や表現と同じくらい、タイトルについても「これでいいのか?」といっそう疑ってみてはどうだろうか。

【入選】
妻咲邦香「沈黙」
なにが面白いって、丁寧に説明しているような語り口なのに、読めば読むほど全く訳がわからず混乱してくること。文章としての前後関係を平然と或いは無邪気に破壊する行為は、機械翻訳された異国語の商品説明書のユニークさにも通じるかもしれない。突如挿入される、「はい、練習を続けます」や、「私こそが沈黙で、それは全く恐れるべき生き物です/けれど下着を着けています」などの、緩急のつけ方というか息継ぎの巧さにも唸る。高野文子の短編を読んだようなカラッとした読後感があった。

河上類「海峡より」
メタファーと仮想世界を絶妙に紡ぎ合わせ、清洌な情景を打ち立てることに成功している。どこを切り取っても、この詩の世界の法則に沿った風景が目に浮かぶのは、作者なりに徹底した美意識や取り決めの下、選び抜かれた言葉が慎重に配置されているからだろう。「角砂糖の夢」「月は欠けることを知らない」など、途中やや情緒的な表現へ逃げてゆく箇所もあったものの、最終連の警句で詩全体が見事に引き締まり、勢いが失われない。

村口宜史「今生の花」
白昼夢のような儚さと郷愁を感じる一編。すえた畳の匂いやむっとした夏の風、書かれてはいない蝉の声まで感じられた。会えなくなった者も存在を続け、ふとした現実の破れ目のような場所で再会することができれば——そんな願いをひょいと具現化できるから、願いが叶うような夢を見ることができるから、詩は良い。タイトルがなぜか時代劇のような仰々しさがあり、もうすこし詩の魅力が伝わるものにすれば良いのでは、と感じた。

臥婁幸「坂の街」
関西出身の母が、「関東は風が強い」とよく言っていた。「坂が多い」、とも。新たな視点が提示されるわけでも、これといった提言があるわけでもないが、そこに身か心を置いたものにしかわからない場所の空気感がストレートに伝わってくる。なにを書き、なにを書かないかのバランス感覚が良いのだと思う。「目を瞑り/無い海を眺めた」、「終始前向きな穂先が/風を受けてそよいでいる」、「坂の町は大海原を漂うのだ」などの表現が面白い(観賞してはいないが、「雨を告げる漂流団地」という映画のタイトルが浮かんだ)。ただ、最後にひとつ飛躍があっても良いかな、と思う。

田口裕理阿「風力観音」
「その頃はまだ、小さな孤島の日々であった」、「彼らは風の信者であるのだ」、など、印象深い詩行が続く。言葉がすこし硬く、読者を遠ざけかねない緊張感があるのが勿体ないと感じる。内容が変わらない範囲で熟語をほどいてみてはどうだろうか。

【佳作】
杉浦陽子「白い待合室」
「折り紙の端と端をぴっちりと畳むように/きちんと死ぬためにここに来た」者へ、化粧の整った受付嬢が「遺書のご用意はございますか」と尋ねる。しかし、最後まで「まだ遺書の書き出しが浮かばない」のだ。事務的に処理されてゆく、システム化された死。それが、受け手側の感情から淡々と描かれてゆくが、最も恐ろしいのは、受け手が既にそれを当たり前に受容し、遺書を書き出せない自分自身に焦燥感をおぼえていること。用意された死の存在に納得しながら生きている人間もまた、奇妙な生き物だと感じる。

遠野一彦「まど」
日常をふとよぎる翳りのようなものを平易な言葉で巧みに捉えている。いかなる時も、自分のことを黙って見つめているのは、「暗いひとつのまど」である、と作者は言う。窓の向こうにいる観察者ではなく、窓そのもの、という点が興味深く、また共感できる。硝子越しにただ過ぎてゆく一瞬の風景が人生なのかもしれない。

岩佐聡「淡水魚たちのいいわけ」
何編かお送りいただいた作品を読んだが、作者特有の浴びせかけるような単語の数々が、若干上滑りしているような印象をおぼえた。どういうことかというと、「本当に古井戸や羊歯植物に触れて書いたのだろうか?」という疑念だ。ただ、実際に体験したことしか書いてはいけないわけではないので、触れていようといまいとどちらでも良いのだが、言葉が道具立てのような感触を帯びてしまう瞬間があったように思う。本作は、その中でも登場する言葉の数々にどれも説得力があったので選んだ。単語を置くセンスにはいつも光るものがあると感じるので、容赦なくぎゃふんと言わせてほしい。

相明麦秋「夏の日」
母親がわりだったという人物について語られるが、「地面は男の笑窪だらけ」という気味の悪い冒頭からも伺えるように、時代や環境に恵まれなかった女性らしい(ここではあえて、「女性」と書く)。「おばさんが最後/ただの誠実な人間として死んだことを/男たちはみんな喜んでいたけれど/私は全然納得できなかった/できるなら全部やり直させてあげたかった」という連に、作者のすべての思いが込められている。

藁科佑輝「KANSO
描かれる老いに湿っぽい叙情がないところに好感が持てる。「ひ孫の二人を湯浴みさせた手で/かつては土も掘ったものだが」、この最後の一文が、過去と未来を遠見するような余韻と予感を含んでいる。

【選外佳作】
柳沢進「至福」
南久子「動機」
山羊アキミチ「狼の目」
八尋由紀「六本木ネジ拾い」
竹井紫乙「月曜日」
河口好里「月」

上記のほか、豊田隼人「植物」、吉川なつ「いつか」、村口宜史「正午の鐘」、南久子「拵える」、有門萌子「時をかける」、田中綾乃「彼方」「青葡萄」、真之介「青」、空見タイガ「大生活」、どろまみれ「裸足」、相原大輔「生きてる」などにも惹かれた。

 

 

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