子どもたちの支援紹介

震災・子どもの詩「悲しみ、痛み」をときはなす
――小学生のケース①                           
                                     清岳こう

1 地震発生から一カ月・「心の支援がほしい。」

 
 校舎が、地面が、電柱が大揺れに揺れ、職員・生徒が運動場に集合したものの何が起こっているのか、まったく分かりませんでした。職員室から出て来れない同僚、私の手を握りしめ泣きつづける同僚、頭から水を被ったまま震えている生徒、半袖短パンのまま固まっているバレー部の部員……。空は不気味な黒雲に覆われ降りつのる雪、雪、雪。ノートパソコンを開くと、津波に呑まれる車の画面、「避難してください。避難してください。」のアナウンサーの絶叫が続きました。しかし、それが私たちの背後で起こっていることとすら想像できませんでした。ただ、信号機も街灯も消えた真っ暗な道、余震の度に前後左右のトラックが乗用車が寄って来、自宅に帰ることだけで必死でした。いつもなら車で三十分の通勤していたのに、三時間もかかってやっと帰宅しました。この地震がマグニチュード9・0もあったこと、前代未聞の災害であったことを知ったのは、テレビが点くようになった二週間後でした。
 生徒の生存確認が終わったのは、一ヶ月後、学校が再開したのは五月でした。繰り返し繰り返し襲ってくる余震、給水の列に並び、食料調達の、入浴の、給油の列に並び、気がつけば春になっていたのです。こ間、不眠の夜を重ねながら、夢中で詩を書きつづけました。書き継ぎながら、私は詩を書くことで恐怖、絶望、悲しみをなだめることができるが、生徒たちはどうしているだろうと考えました。ボランティでがれき撤去などの力仕事はできないが自分にできることがあるのではと。
 こういう状況下、詩こそが「悲しみ、痛み」を解きはなすと、自分の経験から確信しました。作文のように長い時間を必要としない、俳句・短歌のように約束事がない、今、児童・生徒が持っている言葉で自由に書けるからです。もちろん、このような考えには異論もあるかと思いますが、追いつめられていた者には、とにかく行動するしかありませんでした。今、どんな支援が必要かと尋ね歩いた学校で聞いた塩釜第一小学校の校長のつぶやきが、この思いを後押ししてくれました。「もう、物質的な面では十分です。ただ、不安定な子どもたちの心を癒やす持続的な文化的支援を。」「ちょっと来て、すぐに帰ってしまうような支援は要りません。心の支援が欲しい。一回きりではなく、子ども達と長く付きあってくれるような。」ただし、教師たちの「心を開かせることで、もしかして子どもがパニックを起こしたら対処できない。今は、体を動かしたり歌をうたったりして、地震の記憶を極力忘れさせたい。」という声も、多数有りました。

2 ボランティアスクール「ことばの移動教室」開始

 
 そこで始めたのが「ことばの移動教室」です。小、中、高校と要請があれば出かけて行き、「詩」を書いてもらおうというボランティアスクールです。準備に一ヶ月。共に活動してくれる大学生達と心理療法士の話を聞いたりして準備を整えました。皆の一致した意見は次のようなものでした。まず、子どもとの絆を深めるために、それぞれの特技をいかしサッカー、合唱などをすること。心に深い傷を負った子どもに現実を見つめよう、すぐに詩を書こう、というのは過酷だ。時間をかけて自然に、と。
 ところが、あるお母さんが相談に見え、そのせつぱつまった表情が私達のお尻を叩きました。津波が自宅の目前まで来、小学6年生の長女が被災以来、何を話しかけても「ふん」とか「けっ」としか返事をしなくなり、過食が止まらない。どう対応していいかわからない、ということでした。そこで、以下のことを提案しました。詩で自分の気持ちを表現すると、親は決して口出しをしないでと。しかし、二人は、詩を書くことを拒否していたので、母親と清岳との間で連絡しあい、原稿も間接的に見ることにしました。その内、小学2年生の弟が最初に二篇を書き、原稿のやり取りが始まりました。小学6年生の長女は一貫して反抗的でしたが、何週間も経って、一篇の詩を渡してくれました。タイトルは「地震にリベンジ」でした。最初は、こっそり隠れて書いていたのですが、やがて堰をきったように詩を書き始めました。
 地震発生三ヶ月後の六月、小・中、高校を訪問し、具体的な活動を開始ししました。その形式は、各学校の要請に従って、授業、クラブ活動、希望者教室、個別指導、教室に入れなくなった生徒たちのいる保健室でと様々でした。特に、雪の降る公園で、ブランコに乗り指に息を吐きかけながら、詩を考えあったのは忘れられません。父親が事務所を津波で流され、再建の見通しがたたず、自宅では地震の話は絶対にタブーと言うので、自宅にいれてもらえなかったのです。やがて、理由もなく激しい姉・弟間のけんかが頻発していたのも収まり、母親に対する態度も軟化し、過食もなくなり安堵しました。被災一年後の二月には「中学生になったら」と希望に満ちた作品を寄せてくれました。中学進学後、陸上で宮城県代表に選ばれたり、バスケットで活躍のニュースも入ってきました。父親もバスケット部の追っかけをしたりする中で元気になったとのことでした。  

  以下、この活動で生まれた子どもの詩を紹介します。


    電話でお話    仙台白百合学園小学校三年 井崎英乃


    うれしいことがあった時
    悲しいことがあった時
    お願い事があった時
    何でもない時も

    かければ声が聞けたのに
    あの時は何も聞こえなかった

    いつもならおこってしまう
    話し中、、、、、、

    「あ」という声でも聞きたかった
    何でもいいから聞きたかった

 

    リベンジ    塩竈第三小学校六年 佐藤 和香 


    地震があった3月11
    びっくりして
    私は泣いていた

    つなみがきた
    私の家はのみこまれなかった
    ひなんじょにいて
    手伝いをしていたらほめられた

    私は地震があった時
    こんらんしていた
    私はこれから
    地震のことを
    考えながら生きよう

    また地震がくる
    こない訳がない
    またぜったいくる

    その時は
    こん回の地震のリベンジだ

    こん度は
    パニックにならず
    自分の身を守り
    みんなを守れるようにリベンジする

 

    くっつけるもの       桂小学校六年 矢吹 佳奈芽 


    くっつけるもの
    それは
    のり。
    紙とかをくっつける。

    くっつけるもの
    それは
    じしゃく。
    鉄とかをくっつける。

    くっつけるもの
    それは
    友情や愛情。
    人と人とをくっつける。
    なにより一番強力なもの!!



『宮城 震災子ども詩集』の発行


 
 「ことばの移動教室」を震災発生の年の六月に開始し、翌年の二月までの半年で小学四校、中学三校、高校五校、のべ四十数回訪問。250人ほどの生徒に詩の授業・話をしました。最初の数ヶ月は、既成の詩では間に合わない・生徒むけの震災の詩はないということで、教科書出版会社の協力を得て、清岳詩集『マグニチュード九・〇』の中から抜粋したものを中心に副教材用のパンフレットを作成し、使用しました。しかし、児童・生徒の詩の多くが完成したこともあり、それを編集し、『宮城 震災子ども詩集』に小学生14篇、中学生8篇、高校生14篇を収録、発行し、以後は、それを使用しました。表紙は宮城野高校の美術コースの生徒が、「津波に襲われた故郷、でも、やはり、故郷の海は美しい」という言葉と共に、港の絵を提供してくれました。その後、この教材は、『宮城 震災学生詩集』として中国語に翻訳され、台湾の中学校、中国・上海、杭州の大学との交流で使用しました。
 ただ、この時期でも多くの教師は事後処理に追われたり、消息不明の家族を探したり、自宅の立て直しなど疲労困憊の態になっていました。指導書があっても、詩の指導となると途方に暮れる教師が多いこともあり、児童・生徒の詩を教材として使用する場合の一助にと指導案も作成しました。以下、その一部を紹介します。

 

    あさ     塩竃第三小学校三年 佐藤代伍 


    金ようびに
    地しんがきたとき
    みんな ないていた
    世界で三ばん目に強い地しんだった
    近くまでつなみが来た
    でもあんなに海が遠いのに
    つなみが来てびっくりした

    となりの家の
    ピンクのバラが顔を出していた

    ちょっとしぼんでいる
    地しんがきてショックをうけたのかな?

 

問1 どんな地しんでしたか。   
 ・「世界で三番目に強かった」
 ・「つなみが来た」

 ☆大人はどんなふうに言っていますか。
 ・「未曾有の地震」「想定外」
  今までに一度もなかったような、考えもつかなかった地震

 問2 みんなや代伍君のようすはどうでしたか。  
 ・「ないていた」
 ・「びっくりした」

 問3 代伍君は何に気がついたのですか。 
 ・ピンクのバラがちょっとしぼんでいたこと。
  気がついたこと

 問4 おもしろい書きかたをさがしてみましょう。
 参考 このばらはとても大きなばらだったそうです。
 ・「顔を出していた」
 ・「ショックをうけたのかな」
  バラも人間のよう
   (「ショックをうけた」ばら=みんな・代伍君)

 ☆高度な時「代伍君と同じ気もちと書かれているのは?」
 ☆バラ=人間・擬人法→共感

 問5 「あさ」という題はどんな感じがしますか。
 ・元気・しゅっぱつ・新しい
  (ばらも代伍君も同じ気もち)

 ☆表現の個性を鑑賞す
 ・タイトルに新鮮な感動が暗示されている
 ・各連の起承転結が明確で感動がくっきりと表現されている。


    つなみ        塩竃第三小学校三年 佐藤 代伍 


    だいじしんがおきて
    つなみがきた
    つなみでみんなしんだ
    けれど ぼくはだいじょうぶ
    けれど ぼくのかぞくはげんき

    ぎふけんから              
    ボランティアのおじさんがきた
    ボールであそんで楽しかった
    ぎふけんの地図をかいてくれた
    ぎふけんは海がなくて
    いいな

 

問1 代伍君が気がついたことは何だったでしょうか。
 ・「ぎふけんは海がな」いこと。発見

問2 代伍君の気もちがよく表われているのはどこでしょうか。
 ・ぎふけんは海がなくていいな

問3 さいしょの連で「けれど」がくりかえされているのと一回だけのばあい、どんなちがいがうまれるでしょうか。
 ・実際に書かせ、比べさせる。
 ・津波後の風景写真を見せる。
 ・(つなみで死ななかった、かぞくみんなも生きている)
 ほっとした気もちをたしかめているよう 
 死んだ人のことを考えている

 

    ゆれた               桂小学校六年 久保田 翔 


    ゆれた。
    少し。
    震度三くらい。 

    ゆれた。
    すごく。
    震度六くらい。

    ゆれた。          
    もっと。
    震度百くらい。
    縦ゆれ横ゆれ。
    そして 食器が落ちた。
    地面も落ちた。
    さらに 人々の命も落ちた。

 

問1 この詩のおもしろい所を探してみましょう。
 ・第一連から第三連までの表現。
 (しだいに地震の揺れがひどくなっていく様子が伝わってくる。)
 ・「震度百くらい」は実際にはあり得ない数字。
 (その時の恐怖感がわかる。)
 ・誇張表現

問2 第四連の「食器」「地面」はそれぞれ何を代表した言葉でしょうか。他に落ちた物をあげて考えましょう。
 ・食器、テレビ、かびん、本・・・  (生活を支えてきたもの。)
 ・地面、山、畑・・・(命を育ててきたもの。)

問3 なぜ久保田君は「人々の命も落ちた」と表現したのでしょうか。普通ならどう言いますか。また、同じ表現の熟語を挙げてみましょう。
 ・人々も亡くなった(敬意をこめた表現。)
 ・落命・辞書を引いてみましょう。
 (偶然命を亡くした時、災難にあって命を亡くした時に使う。)

地震で命を失った=残念な気持がこもっている
 ・「食器」=「地面」=「人」
 亡くなった全ての命は平等
 ・作者の感じ方を理解しよう

問4 各行の「。」はどんな役割をはたしているでしょうか。
 ・つらい気持ちや悲しみをこらえるような働き。
 ・細部の表現も注意してみよう

問5 この詩を朗読してみましょう。どんなことに注意して読めば久保田君の気持ちが伝わるでしょうか。 

 例1・第一連から第三連まで・・・しだいに強く読んでみる。 
   ・第四連はいっそう強く、速く読み、最後の一行「さらに 人々の命も落ちた。」はゆっくり読んでみる。
   
 例2・各連をそれぞれ三人でリレー方式で読んでみる。
   ・第4連は三人で声をそろえて読んでみる。
   ・朗読を通して作者の気持ちを体験してみよう


4 ある母親の手紙から

 
「ことばの移動教室」を開始した頃、真っ先に相談に見えたお母さんから手紙を受取りましたので、その一部を紹介します。

 
『、、、、、、東日本大震災というもの、、、、、、、、子供の心に大きな跡を残していることを初めて感じたのはまだ余震の続く5月だった。6年生になった娘がコロコロと態度を変えた。口数少なく反抗的な態度をとるようにもなった。話しかけても無視。返事をすると思えば「フン」「ケッ」。3年生になった息子は怯えた。自分用の避難リュックを何度も入れ換えて点検していた。、、、、、、そして親は子供を失うかもしれない、もう家族と会えないかもしれないという恐怖に捉われた。3.11のあの瞬間から、今も口に出すのも恐ろしいこの思いがずっと後から波のように押し寄せることがあるのだ。
 ある日、職場で清岳先生とこんな家庭の様子を立ち話したとき「子ども達、詩を書いてみない?」と勧められた。清岳先生との約束は「無理やり書かせない。子供が書いたものを評価しない。できれば読まずに持ってくる。」というものだった。子供達の書いた詩は、思いがけずよい評価を受けた。清岳先生にほめられて、テレビの取材を受け、詩集に掲載された。詩を書くことは自然体の自分だけの心と向き合うことであった。誰にも見せたくはない部分だった。この『詩』の輪が世界に広がる様を見て、自分自身に自信をもつようになった。あのとき、詩を書くことはその時の気持ちを切り取って描き、そしてその感情を過去に出来るものであったと思う。子ども達があの体験を過去にしていく中で、親も危機管理に過剰に敏感になっていた時期をやり過ごすことが出来たのだと思う。
 東日本大震災は地震、津波、原子力発電所問題があった。現実的なゆれと一緒に心に強い揺さぶりをかけたと思う。何も信じられない。明日はまた来るだろうか…。しかし、あのさなかそういった心の奥底を語り合うことはなかった。それは現実的なことで心が一杯だったから。いや、皆避けていたのかも知れない。どう話していいかわからないから。相手の反応がわからないから。恐ろしくて口には出せないから。答えが見つからないから。泣き出してしまいそうな自分を持て余すから。
 『詩』は紙に向かって自分の心を自分で探りながらできる対話。誰にも邪魔されず短い言葉で完結して、そのとらわれた感情から卒業できる。心を表す方法として『詩』に出会い、子供たちは幸せであったと今になって思う。
 2012年12月7日夕方5時8分に忘れていたあの強い揺れがあった。地震からすぐ沿岸部には津波警報が発令された。中学1年生生になった娘は部活で学校にいたため、教室にもどされて親の迎えを待つことになった。不安がる同級生の中で「うちの親は迎えに来られないから」とさっさと教室の机を並べて体操着を布団のように敷き自分のベットをこしらえ、担任の先生に「今日の夕飯は何ですか?乾パンは嫌です。」と言ったそうだ。詩に書いたようにみごとに「リベンジ」を果たしたのだ。』

 

ページトップへ戻る